7話 S級の冷や汗

Fランク専用S級クエスト〜捨て駒の俺たち、無傷で帰還した件2026-06-03 00:03:04

7話 S級の冷や汗

その日の夜、ギルドから緊急招集がかかった。
対象は王都に滞在中のS級冒険者全員。俺たちF級の報告があまりにも異常だったため、ギルド本部が即座に判断したのだろう。一時間もしないうちに、ギルド二階の大会議室には、王国最強と称される冒険者たちが集結していた。
俺たちF級の代表として、グレンと俺の二人だけが、その場への同席を許された。
会議室に入った瞬間、肌がひりつくような気配を感じた。部屋の中にいるのは、十人にも満たない人数だった。だが——その一人ひとりが放つ存在感が、あまりにも重い。
(これが——S級)
角の席に腰掛けているのは、全身を黒い鎧で包んだ巨漢——「黒鋼」の二つ名を持つ、近接戦闘の頂点。窓際に立っているのは、白髪の魔導士——「大賢者」と呼ばれる、王国最高の魔法使い。その隣には、弓を背負った細身のエルフ——三百メートル先の的を射抜くという、「鷹の目」の異名を持つ女狙撃手。
そして——正面の席に、一人の男が座っていた。
燃えるような赤髪を後ろで束ね、冷たい碧眼でこちらをじっと見つめている。細身だが無駄のない体躯。腰には一振りの長剣——見ただけでわかる。並の武器じゃない。柄に刻まれた紋章は、王国王室から直接賜った「剣聖」の証だ。
如月千尋。三十四歳。王国に五人しかいないS級冒険者の一人であり、その中でも最強と謳われる剣士。
彼が口を開くより先に、部屋の空気が変わった。
「——話を聞こう」
声は静かだった。だが、その一言で全員の視線が俺たちに集中する。十人に満たないS級冒険者たちの目が、一斉に俺たちF級の二人を射抜いた。
グレンが報告を始めた。朝、王都を出発したこと。峡谷へ向かったこと。標的の怪物と遭遇したこと。災害指定種の異様な外観——灰黒色の巨躯、六本の脚、無数のヒビ割れた口。そして——
「怪物は、俺たちを認識しなかった」
その言葉に、部屋の空気が微かに震えた。
「いや——認識していた。体の向きを変え、口を開き、こちらの気配を探っていた。だが、その直後に——興味を失ったように視線を逸らした。まるで、そこに何もいないかのように」
グレンは淡々と続けた。ワイバーンの出現。怪物による一瞬の粉砕。そして、俺たちF級の仮説——この怪物は、自分より強い気配を感じ取った相手だけを認識し、攻撃するのではないか、と。
報告が終わると、部屋は重い沈黙に包まれた。
最初に口を開いたのは、白髪の魔導士——大賢者だった。
「なるほど。つまり——その怪物は、気配を感知して獲物を選別する。感知の閾値は、少なくとも成体のワイバーン以上。そして、F級冒険者の気配は——その閾値にすら達していない」
「はい」
「ゆえに——お前たちF級は、怪物からすれば『存在しない』も同然だった」
「……はい」
大賢者は深く息を吐き、天井を見上げた。その顔には、研究者的な興味と——それとは別の、形容しがたい表情が浮かんでいる。
「面白い。いや、面白いでは済まないな」
「どういうことだ」
黒鋼が低い声で割って入った。
「つまり——俺たちは、その怪物を認識させることができないのか」
「違う」
大賢者が首を振った。
「認識させることはできる——させてしまう。むしろ、俺たちほどの存在なら、確実に認識される。そして——」
彼は言葉を切った。だが、言わんとしていることは全員が理解していた。
(認識されたら——即座に殺される)
部屋の空気が、さらに重くなる。S級冒険者たちが、それぞれの表情でこの現実を受け止めようとしていた。
「……待て」
弓を背負ったエルフ——鷹の目が、初めて口を開いた。その声は冷静だったが、かすかに震えている。弓を握る長い指が、微かに白くなっているのが見えた。
「お前たちF級が無傷で帰還したということは——逆に言えば、この部屋にいる誰かが任務に行っていたら、全滅していたということか」
誰も答えなかった。答える必要がなかった。
黒鋼が、拳をテーブルに叩きつけた。重い音が部屋に響く。
「——そういうことか」
彼の声は怒りに満ちていた。だが、その怒りは誰かに向けられたものではない——自分自身の無力さに対する怒りだ。何百という怪物を屠ってきたこの巨漢が、相手を傷つけるどころか、ただその場にいるだけで死を招く存在だったという事実に。
グレンが、静かに言った。
「はい。間違いなく」
沈黙。
時計の針の音だけが、やけに大きく響いた。
その時——如月千尋が、ゆっくりと立ち上がった。
全員の視線が彼に集中する。剣聖は無言で窓辺まで歩き、外の夜景を見下ろした。王都の灯りが、遠くで瞬いている。
「……我々は」
彼の声は、いつもの凛とした響きを失っていた。
「我々は——自分たちの強さに、何の疑問も持っていなかった。S級であることを誇り、F級を見下していた。だが——」
千尋は振り返った。その碧眼が、まっすぐに俺を見た。
「今回のクエストに限って言えば——最も弱い者が、最も強かった。最も強い者が、最も弱かった。俺たちS級は——ただ生きているだけで、あの怪物を引き起こす起爆剤に過ぎなかったのだ」
冷や汗が、彼のこめかみを伝った。
剣聖の冷や汗——そんなものを見るのは、おそらくこの場の誰もが初めてだった。王国最強の剣士が、今、明らかに動揺している。
「我々が行っていたら——全滅だった」
千尋の呟きが、静寂を切り裂いた。
「それどころか——俺たちの強すぎる気配が、かえって怪物の攻撃本能を過剰に刺激し、被害を拡大させていたかもしれない。王都にまで——」
誰もが息を呑んだ。黒鋼が拳を握りしめ、大賢者が目を閉じ、鷹の目が唇を噛んだ。
この部屋にいる全員が、同時に同じ結論に達したのだ。
偶然が産んだ奇跡。誰も予想しなかった逆転。捨て駒と蔑まれたF級冒険者たちこそが——この任務を達成できる唯一の存在だった。
「そして——」
千尋が俺の方を向いた。その目には、もはや動揺はなかった。代わりに、何か——覚悟のようなものが宿っている。
「我々S級冒険者は、今回の件で決定的な誤りを犯した。F級を捨て駒扱いし、その価値を、可能性を、何一つ見ようとしなかった」
彼は深く息を吸い、俺たち二人——グレンと俺に、はっきりと言った。
「謝罪する。そして——礼を言う。お前たちは、王国を救った」
部屋の中のS級冒険者たちが、次々と立ち上がった。誰からともなく——彼らは俺たちF級二人に向かって、静かに頭を下げた。
王国最強の戦士たちが、最も弱いとされてきた冒険者たちに——敬意を表した瞬間だった。
俺は——何も言えなかった。
剣聖が。黒鋼が。大賢者が。鷹の目が。全員が、頭を下げている。これまで一度だって想像したことのない光景だった。F級の俺に、S級が頭を下げる——そんなこと、ありえるはずがないと思っていた。
(でも——これが、今の現実なんだ)
偶然がもたらした奇跡。弱さが強さを超えた日。捨て駒が王国を救った日。今日という一日は、そのすべてをひっくり返した。
千尋が顔を上げた。その冷たい碧眼に宿っていたのは、もはや動揺でも、恥辱でもなかった。
「だが——」
彼の声は、再び剣聖のものに戻っていた。
「この怪物の存在は、我々にとって最大の脅威だ。感知の閾値がどこにあるのか——まだ完全には解明されていない。対策も、攻略法も、何ひとつ確立されていない」
彼は俺たちを見据えた。
「お前たちF級の価値は、決定的に変わった。だが——それは同時に、新たな責務を背負うことを意味する。その覚悟はあるか」
答えようとしたその時——会議室の扉が、ノックもなしに開かれた。
入ってきたのは、息を切らせたギルド職員だった。手には、朱色の封蝋が押された羊皮紙が握られている。
それを見た瞬間、千尋の顔色が変わった。
「——緊急クエストか」
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