3話 怪物の沈黙
3話 怪物の沈黙
峡谷の底は、別世界だった。
陽の光は完全に遮られ、頭上を見上げても、切り立った断崖が空を細い一本の線にまで押し縮めている。その隙間から漏れるわずかな光も、濃い霧に遮られて、底までは届かない。空気は冷たく、湿っていた。岩肌から染み出す水の匂いと、どこかで腐った苔の甘ったるい臭気が混ざり合っている。
道はどんどん狭くなり、今では二人並んで歩くことすら難しくなっていた。縦に長く伸びた二十数人の行列——グレンが先頭、俺がその後ろ、リックが俺のすぐ後ろに続く。誰も口を開かない。靴音だけが、濡れた石の壁に反響して、妙に大きく響いていた。
カツ、カツ、カツ——
自分の足音が、他人の足音なのかもわからなくなってくる。視界は十歩先までしか利かない。曲がりくねった峡谷の壁に遮られて、前方の景色はまったく見えなかった。
(この先に——あいつがいるのか)
災害指定種。S級パーティですら半壊する怪物。想像しようとしても、頭の中に浮かぶのは、グレンが語った「深淵の顎」の話だけだった。
空気が変わったのは、それからすぐのことだった。
匂いだ。
腐った苔の甘ったるさではない。もっと原始的で、本能に直接訴えかける匂い——獣の匂い。それも、そこらの野犬や熊とは比べ物にならない。呼吸するだけで、肺の奥がひりつくような、濃密で異質な気配。
先頭のグレンが、足を止めた。
俺も止まった。後ろのリックも、さらに後ろの連中も、全員が同時に立ち止まったかのようだった。
「……見えた」
グレンの声は、かろうじて聞き取れるほどの囁きだった。その声には、これまで一度も感じたことのないものが混ざっていた——恐怖だ。あの無骨で無表情な大男が、明らかに震えていた。
俺はゆっくりと、彼の肩越しに前方を見た。
峡谷が、少しだけ開けていた。突然、壁が左右に広がり、小さな円形の空間ができている。霧が薄れたその場所に——そいつはいた。
(ああ——)
まず、大きさがおかしい。
ギルドの建物が、二階建てだ。その建物と、同じくらいの高さがある。いや、もしかするともっと大きいかもしれない。首を曲げなければ全体像を捉えられないほどの巨躯が、峡谷の岩肌に溶け込むようにして、そこにあった。
体表は岩と同じ灰黒色で、ごつごつとした突起が無数に生えている。それが皮膚なのか、甲殻なのか、それとも岩そのものなのか——遠目には区別がつかなかった。六本の太い脚が岩盤に食い込み、ゆっくりと、ほとんど動いているのかわからないほどの速度で、体を移動させている。
そして——顔。
顔と呼べるものが、あるのかどうか。あるいは全身が顔なのか。複数の——数えきれないほどの——ヒビ割れのような口が、体表のあちこちに開いては閉じ、開いては閉じている。その口の中は、暗くて何も見えない。ただ、呼吸に合わせて吐き出される息が、白く濁った蒸気になって霧の中に溶けていった。
誰かが、剣を落とした。
カラン、という金属音が、異常なほど大きく峡谷に響き渡る。
俺は——動けなかった。というより、体が動かなかった。脳が送る「逃げろ」という信号が、手足のどこにも届かない。膝が震えている。指先が冷たい。心臓だけが、壊れた太鼓のように胸の内側を叩き続けている。
(死ぬ)
その一語だけが、頭の中をぐるぐると回っていた。逃げられない。戦えない。こんなものと戦えるはずがない。剣を握る手にすら力が入らないのに——どうやって。
怪物が、動いた。
いや——動いた、というのは正確じゃない。
怪物の体が、ゆっくりと俺たちの方へ向きを変えた。六本の脚が岩盤を掴み直し、巨体が静かに旋回する。体表のヒビ割れた口が、一斉に開き——閉じた。
(来る)
歯を食いしばった。目を閉じなかった。不思議と、閉じることができなかった。最後まで見届けなければ——そんな感覚が、妙に体を支配していた。
一秒。二秒。三秒。
怪物は——動かなかった。
いや、動いていた。だが、それは俺たちに向かってくる動きではなかった。その巨体は、俺たちのいる方向とはまったく別の角度で、ゆっくりと峡谷の壁に沿って這うように動き続けている。まるで、俺たちがそこにいないかのように。
「……なにが、起こってる」
リックの声だった。震えていて、かろうじて聞き取れるかどうかという音量だ。
誰も答えなかった。誰も、答えを持っていなかった。
怪物はさらに動いた。今度は明らかに、俺たちの方向を向いている。体表の口々が開き——また閉じる。だが——その全身から漂う異様な気配は、決して俺たちには向けられていなかった。まるで、壁の向こうに何か別の存在を探しているかのように——怪物の注意は、完全に別の方向を向いていた。
そして、起こったのは——もっと理解不能なことだった。
怪物が、俺たちの真横を通り過ぎた。
十歩か、二十歩か。手を伸ばせば届くかもしれない距離を、あの巨体が——ゆっくりと、何事もなかったかのように、通り過ぎていったのだ。岩盤を砕く重い足音が地面を震わせ、吐き出される白い蒸気が髪を揺らした。それだけだった。
それだけ——だった。
誰も動けなかった。動くことを、脳が許可しなかった。呼吸すら止まっている奴がいるかもしれない。俺自身、息をしていたかどうか覚えていない。
怪物の巨体が峡谷の奥へ消え、足音の残響だけが壁に反響して消えていった後——最初に口を開いたのは、意外にも誰でもなかった。全員が、同じタイミングで息を吐いた。それだけだった。
「……なんで、だ」
グレンの声が、妙に平坦だった。
「なんで——攻撃してこない」
答えられる者はいない。
俺は膝の震えが止まらないのを感じながら、必死に頭を動かそうとしていた。
さっきの怪物——あれは間違いなく、俺たちを認識していた。体の向きが変わった。口が開いた。息が触れた。あれは「気づいていない」動きじゃない。
それなのに——なぜ。
「おい、朔」
リックが俺の袖を引っ張った。その手はまだ震えている。
「あれ、なんだったんだよ。なんで俺たち——」
言いかけて、言葉を飲み込んだ。いや、飲み込まざるを得なかった。俺たちが今、生きている。その事実そのものが、あまりにも説明不能だったからだ。
グレンが振り返った。その表情は、先ほどまでの恐怖とは別のものに変わっていた。困惑——そして、何かを見つけようとする必死さ。
「……おかしい」
彼はそれだけを言って、怪物が消えた方角をじっと見つめた。
「あんな距離まで近づいて、攻撃してこないはずがない。災害指定種だぞ。人間を見れば、問答無用で——」
「でも、しなかった」
俺の声だった。我ながら、驚くほど冷静に聞こえた。違う。冷静なんかじゃない。ただ——恐怖が限界を超えて、何か別のものに変わっただけだ。
「攻撃してこなかった。それどころか——まるで俺たちが見えてないみたいだった」
「見えてない……?」
リックが繰り返した。その声には、小さな希望の火種が宿っていた。まだそれは、かすかなものだったけれど。
峡谷の奥から、風が吹いてきた。さっきまで感じていた獣の匂いは、もう薄れている。代わりに、冷たい霧だけが、俺たちの周りをゆっくりと包み込んでいた。
俺は剣の柄を握ったまま、もう一度、怪物の消えた暗がりを見つめた。
(何かが——決定的におかしい)
その感覚だけが、胸の中でどんどん大きく膨らんでいく。
「……先に進むぞ」
グレンの声には、さっきまでの震えはもうなかった。
「まだ任務は終わってない。それに——確かめなきゃならねえことがある」
誰も反対しなかった。怯えはまだ全員の顔に残っていた。でも——同時に、さっきまでとは違う表情が、一人ひとりの目に宿り始めていた。
死ぬと思った。死ぬと確信した。でも、死ななかった。
(なぜ——)
俺たちは再び、足を踏み出した。
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