1話 S級クエスト、F級限定

Fランク専用S級クエスト〜捨て駒の俺たち、無傷で帰還した件2026-06-03 00:00:53

1話 S級クエスト、F級限定

あの日、ギルドの掲示板に貼り出された一枚の羊皮紙が——俺たちF級冒険者の命運を決めた。
早朝の冒険者ギルドには、まだのんびりとした空気が漂っていた。高い窓から斜めに差し込む朝日が、磨き込まれた木の床を金色に染めている。俺——一ノ瀬朔は、いつものように掲示板の前で今日の依頼を眺めていた。
(薬草採取……昨日もやったな。ゴブリン駆除の補助人員は……もう埋まってるか)
F級に回ってくる依頼は限られている。掃除、荷運び、採取の手伝い。冒険者と呼ぶのも恥ずかしい雑務ばかりだ。それでも三年間、俺はここに通い続けた。諦めるには、あまりに多くのものを費やしすぎていた。
指先で依頼書を捲っていた手が——止まった。
掲示板の右上。朱色の封蝋が押された一枚の羊皮紙。緊急クエストを示す、あの赤い印だ。だが——目を疑ったのは、その記載内容だった。
『クエスト等級:S級』
『参加条件:冒険者ランクF級の者のみ』
「は?」
声に出ていた。隣で同じように掲示板を見ていた痩せ型の男——薬草採取ばかり請け負っているリックが、俺の肩越しに羊皮紙を覗き込み、手に持っていたパンを落とした。
「……朔。これ、どういう意味だ?」
俺に聞くな。そう言おうとして、声が出なかった。
ギルド内のざわめきが、くさむらの火のように広がっていく。あちこちで短い悲鳴と、信じられないという声が上がった。受付カウンターの向こうでは、若い職員の一人が顔面蒼白で奥へ走っていく。
「S級だぞ。S級。それをF級だけだと……?」
「本部の手違いだろ、絶対」
「おい、冗談だと言ってくれよ——」
俺は羊皮紙から目を離せなかった。S級クエスト。それは王国の最上位冒険者たちが、それでも命がけで挑む任務だ。ある年には、S級パーティが一式、帰還しなかったという話もある。そんな任務に、ゴブリン一匹にすら苦戦する俺たちが——。
(ありえない。こんなの、ただの捨て駒じゃないか)
胸の奥で何かが渦を巻く。吐き気にも似た感覚が、喉の奥でつかえている。指先がじわりと冷たくなって、羊皮紙の端を掴む手に力が入らなくなった。
——その時だった。
ギルド二階への階段から、重い靴音が降りてくる。顔を上げるまでもない。この足音を知らない者はいない。マスター代理、桐生圭祐。元B級冒険者で、左目に古傷を持つこのギルドの実質的な責任者だ。
「全員、その場で聞け」
桐生さんの声は、驚くほど静かだった。張り上げるでもなく、怒鳴るでもなく——それでいて、場のざわめきは一瞬で止まった。彼が自ら降りてくるのは、よほどのことがあった証拠だ。
「このクエストは本物だ。三分前に、王都ギルド本部から直々に届いた」
沈黙。呼吸の音すら聞こえそうな静けさの中で、桐生さんは続けた。
「S級に相当する怪物が、王都近隣の峡谷に出現した。これ自体は珍しいことではない。だが——」
彼は一瞬間を置いた。古傷のある左目の周りの皮膚が、ほんの僅かに引き攣る。
「討伐に赴けるのは、F級冒険者のみ。ランクF以外の者——E級以上、A級、S級を含む——全員が、このクエストを受注する資格を持たない」
誰かが息を呑んだ。あるいは、俺自身だったかもしれない。
「……理由は」
声が掠れていた。周りの奴らが一斉に俺を見る。それでも言葉を止めなかった。
「なぜF級だけなんですか。S級、A級の連中の方が——」
「わからん」
桐生さんは静かに首を振った。その目は、俺たちを通り越してどこか遠くを見ているようだった。
「本部も理由を明かしていない。ただ推測できるのは——この怪物には、何か特殊な性質があるということだ。高ランク冒険者では対応できない、あるいは——対応させてはいけない何かが」
特殊な性質——その言葉が、妙に頭に残った。だがそれ以上考える余裕はなかった。
桐生さんは俺たちF級冒険者を一人ひとり見渡すと、少しだけ声を落とした。
「このクエストの受注は強制ではない。拒否してもペナルティはない。だが——」
ここで彼が言葉を切ったのは、想像がつく。F級が最後までF級で終わるかどうかの分かれ道。逃げれば一生、自分を恥じるかもしれない。挑めば——死ぬかもしれない。
「受ける奴は、カウンターに来い」
そう言い残して、桐生さんはカウンターの奥へ消えた。
残された俺たちの間に、奇妙な空気が流れた。誰も動かない。でも、誰も掲示板から離れようとしない。視線が交差し、逸らされ、また戻る。
最初に動いたのは、解体作業専門のグレンだった。無骨な大男が、無言でカウンターへ歩いていく。次に、リックがパンの食べかけをカウンターに置いて続いた。一人、また一人と、列が伸びていく。
俺は立ち尽くしたまま、自分の右手を見ていた。ずっと握りしめていた依頼書が、しわくちゃになっている。この三年間、これを握ってきた手だ。薬草採取の依頼書を。ゴブリン駆除の補助依頼書を。たかがF級の雑務依頼書を——それでも、諦めなかった手だ。
(お前、このまま終わるのか)
古びた剣の鞘を握る。革の表面が擦り切れて、ざらついた感触が指の腹に伝わる。冷たい鉄の匂いが、かすかに鼻をくすぐった。
——ふと、迷宮の記憶がよぎった。十歳の冬。野犬の群れに追われて、誰もいない地下迷宮に逃げ込んだあの日。四方を囲む冷たい石壁。自分の吐く息だけが白く漂う暗闇。死を覚悟した瞬間——背後から差し込んだ松明の光と、俺を担ぎ上げた腕の力強さ。
錆びた鉄と石の匂いがした。あの人も、こんな匂いの中を歩いてきたんだろうか。
(大丈夫だ。まだ、生きてる)
そう言い聞かせて、足を踏み出した。
カウンターに着く頃には、指の震えは止まっていた。桐生さんが俺のギルドカードを受け取り、何か言いかけて——口を閉じた。代わりに、短く息を吐く。
「……気をつけて」
「はい」
それ以上、言葉は要らなかった。
身支度を整えるために装備庫へ向かう。革の胸当てを締めながら、ふと笑えてきた。これが俺の最強装備だ。金貨一枚にも満たない胸当てと、三年前に中古で買った片手剣。これでS級の怪物に挑む。
(正気か、俺は)
いや、正気じゃない。正気なら、こんなクエスト受けるわけがない。
装備庫を出ると、ギルドホールにはすでにF級冒険者たちの一団ができていた。二十人ほど。いつもはバラバラに雑務をこなしている顔ぶれが、今は一つの塊になっている。
出口へ向かう俺たちを、上級冒険者たちの視線が追いかけた。
「あいつら、死にに行くのかよ」
酒場の隅から、そんな呟きが聞こえた。A級のパーティだろうか。豪華な装備に身を包んだ連中が、哀れむような目でこちらを見ている。
「可哀想に。ついにギルドも捨て駒を使うようになったか」
「F級がS級を討伐? ——ぷっ、お笑い種だな」
耳の奥で、ずっと残っている。笑い返すことも、睨み返すこともできなかった。ただ、歩いた。
外に出た途端、王都の朝が肌に触れた。朝露を含んだ空気がひんやりと頬を撫でる。パン屋から焼きたての香りが漂い、行商人たちの威勢のいい声が飛び交っている。いつもと変わらない、平和な朝だった。
でも——その平和を、もう一度見られる保証はない。
「なあ、朔」
隣を歩いていたリックが、ふと言った。
「俺さ、今朝、妹に嘘ついちまった。いつも通りの依頼だって——」
それ以上は言わなかった。代わりに、乾いた笑みを浮かべた。
門を抜け、街道に出る。先頭を歩くグレンの背中が、朝日の中でやけに大きく見えた。俺は一度だけ振り返った。ギルドの尖塔が、金色の光に照らされて輝いている。
(大丈夫だ)
俺は柄を握りしめた。
(まだ、生きてる)
足を止めずに、仲間たちの背中を追いかけた。街道の向こう、峡谷の影が、じわりと俺たちを待っていた。
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