29話 剣術大会開幕
29話 剣術大会開幕
第二十九章 氷の令嬢の溶ける日
フィオナ・ラズウェルは、十五歳の夏に母を亡くした。
真っ白な病室。消毒液の匂い。窓の外では蝉が鳴いていて、カーテン越しの日差しが母の頬を透き通るように照らしていた。侯爵夫人ロザリア・ラズウェルは最後の瞬間まで微笑んでいた。彼女の目には涙はなかった。代わりに——娘を守ろうとする、静かな覚悟があった。
「……フィオナ」
弱々しい手がフィオナの手を包んだ。その手から伝わってくるわずかな魔力の残滓——根源水。母もまた、同じ力を持っていたのだ。
「あなたの力は普通じゃない。決して誰にも全部を見せてはいけない」
それが母の遺した最後の言葉だった。
フィオナは頷くことしかできなかった。喉が張りついて、声が出なかった。涙さえも——出なかった。泣いたら母が心配する。泣いたら母が安心して逝けない。そう思って、彼女は十五歳の少女のすべての感情を——内側に閉じ込めた。
それが、すべての始まりだった。
◇
侯爵家の長女として生まれたフィオナは、幼い頃から特別だった。
三歳で初めて魔力を顕現させた時、家庭教師たちは皆、その才能に驚嘆した。四属性すべてに親和性を示しながら、どれにも属さない——無属性。だが家族はそれを「根源水」という禁忌にも等しい力だと知っていた。ラズウェル侯爵家の血筋には、何代かに一度この力が現れる。そしてその力を持つ者は——常に孤立する。
「普通の令嬢のように振る舞いなさい」
父である侯爵はそう言った。感情を表に出さず、誰にも本音を見せず、ただ静かに本を読むだけの少女——周囲は彼女を「氷の令嬢」と呼ぶようになった。
でも本当は違った。
フィオナは決して冷たい人間ではなかった。ただ——母の最期の言葉が、彼女の心を固く閉ざしていただけだった。根源水を誰にも知られてはいけない。知られれば利用される。あるいは——排除される。だからこそ彼女は、誰にも心を開かずに生きてきた。
社交界の夜会では、壁際の席で本を読むだけ。
学院の食堂では、いつも一人で食事をとるだけ。
誰かが話しかけても、必要最低限の言葉だけを返す。
それが彼女が築いた——自分を守るための「氷の城」だった。
だが。
——この学院で、あの閉架書庫で、アレク・ヴァンデルトに出会うまでは。
◇
アレク・ヴァンデルト。追放された無能の三男——周囲はそう呼んでいた。でもフィオナには、すぐにわかった。彼が見せている四属性の魔力は「虚飾」。彼が本当に持っている力は、アイリスの花が示した通り——虚飾無。根源水と対を成す、もう一つの禁忌の力。
初めて彼を認識したのは、入学式の日だった。
新入生がずらりと並ぶ大講堂。緊張と期待が入り混じる空気の中で、ただ一人——後ろの隅の席で、退屈そうに天井を見上げている男子生徒がいた。アレク・ヴァンデルト。彼の右手の甲には、四属性を示す紋章が浮かんでいたが——フィオナの目には、それが偽りであることが見えた。根源水を持つ彼女だからこそ、見破ることができたのだ。
(——あの人は、私と同じだ)
それが最初の感想だった。
だが、話しかけることはなかった。話しかければ、こちらの正体も露呈する可能性がある。フィオナはそう判断し、距離を置いた。
代わりに彼女は——観察することにした。
アレクが毎日のように閉架書庫に通っていることを知ったのは、入学から一週間後のことだった。図書委員として閉架書庫の管理を任されていたフィオナは、入退室の記録から彼の存在に気づいた。最初は不審に思った。一年生が閉架書庫に何の用があるのか——。そう思い、ある日の放課後、そっと彼の後をつけた。
閉架書庫の奥。誰も近づかない禁書の棚。その前で、アレクは床に座り込んで、古びた文献を一心不乱に読みふけっていた。ランタンの灯りが彼の横顔を照らしている。その表情は——入学式の時に見せていた退屈そうな顔とはまったく違っていた。真剣で、飢えたように、一ページ一ページを貪るように読んでいる。
フィオナは書架の陰に隠れて、その姿を見つめた。
(何を読んでいるんだろう)
禁書のタイトルは『属性境界論——第五元素の仮説』。無属性に関する数少ない文献の一つだった。
その日から、フィオナは習慣のようにアレクを観察するようになった。彼が閉架書庫に来るたびに、書架の陰から見ていた。彼が読む文献の傾向。彼がどんな表情で読んでいるか。彼が何に興味を持ち、何に苛立っているか——。
知りたかった。自分と同じように「普通じゃない力」を持つ者がいる。どうやってその力と向き合っているのか——。知りたかった。それだけだった。少なくとも——最初は。
◇
変化が訪れたのは、共同研究が始まってからだった。
きっかけは些細なことだった。学院の課題で「古代魔法文明における属性分類」のレポートを提出した時、たまたまアレクも同じテーマを選んでいた。教授が「二人で共同研究をしてみてはどうか」と提案し、なし崩し的に二人は閉架書庫で一緒に過ごすことになったのだ。
最初は気まずかった。
閉架書庫の長机を挟んで向かい合い、お互いに一言も発さず文献を読み続ける。それが一週間ほど続いた。でも——徐々に、壁は薄れていった。
「この文献、第五節の記述が矛盾してる」
ある日、アレクがぽつりと言った。
「——どこ」
「ここだ。『無属性は全属性の根源でありながら、いかなる属性にも変換されない』。でも第三節では『無属性の魔力は任意の属性に転化可能』って書いてある」
フィオナは自分の手元の文献をめくった。確かに矛盾している。
「……筆者が違うからかもしれない。第三節はラングレー、第五節はヴェルナー」
「なるほど。学派の違いか」
そんな会話から始まった。文献の解釈について議論し、魔法理論について意見を交わし、時には夜遅くまで閉架書庫にこもった。アレクは頭が良かった。彼の分析は鋭く、時にはフィオナも驚かされるような視点を持っていた。そして何より——彼は決して彼女を「氷の令嬢」扱いしなかった。
ただの「フィオナ」として接してくれた。
それが——どれほど嬉しかったか。当時の彼女は、まだ言葉にできなかったけれど。
◇
ある日、気づいてしまった。
閉架書庫で文献を読んでいて、ふと顔を上げると、アレクが隣の席で真剣な表情でペンを走らせていた。ランタンの柔らかな灯りが、彼の黒髪に金色の縁取りをつけている。その横顔を見た瞬間——フィオナの根源水が、ふわりと反応した。
(——え?)
今までは制御に細心の注意を要していた力が——驚くほど安定している。彼が近くにいるだけで、根源水が静かに凪いでいくのだ。波立つ水面に一滴の油を落としたように——ぴたりと。
逆に、彼がいない日は違った。
図書館で本を読んでいても集中できず、ランタンの灯りがやけに冷たく感じる。講義室で彼の姿を無意識に探している自分がいて、見つからないと——胸の奥がざわつく。
(——これは。なんていう感情なんだろう)
侯爵令嬢としての立場と、一人の女性としての感情の間で、彼女は揺れていた。ラズウェル侯爵家の長女が、追放されたヴァンデルト伯爵家の三男に——。そんなことは考えてはいけないと、何度も自分に言い聞かせた。これはただの共同研究。彼はただの研究仲間。それ以上でもそれ以下でもない。そう思おうとした。
でも——心は理屈では動かない。
◇
そして、決定的な瞬間が訪れた。
それは梅雨のある午後だった。外は朝から降り続く雨が窓を叩き、閉架書庫の中はいつもより薄暗かった。ランタンの灯りを三つも灯しても、書架の奥までは光が届かない。湿気を含んだ空気が、古い羊皮紙の匂いを濃くしていた。
アレクは隣の書架で、十六世紀の魔導書を調べていた。フィオナは机に向かって、古代魔法陣の転写をしていた。集中していた。雨音が遠くに聞こえるだけで、世界は静かだった。
——その時。
「フィオナ、これ見てくれ」
アレクが隣の書架から本を取ろうと手を伸ばした。その手が——偶然、彼女の手に触れた。
たったそれだけのことだった。
でもその瞬間——フィオナの根源水は、意志とは無関係に反応した。手の甲から無色の水の膜が溢れ出し、みるみるうちに広がっていく。机の上の文献が水浸しになり、床にまで水が滴り落ちた。
「——あ……!」
フィオナは蒼白になった。しまった——見られた——。彼に、アレクにだけは——知られたくなかった。
「——ごめん、なさ……!」
慌てて手を引っ込め、必死に水を抑えようとする。でも一度溢れ出した根源水はなかなか収まらない。焦れば焦るほど、水は激しく波打った。文献が——大切な資料が——全部濡れていく。彼女は呆然と、自分が引き起こした惨状を見つめた。
(終わった——)
もう彼の顔を見られない。そう思って俯くフィオナ。
だが——
アレクは静かに、濡れた文献を一冊ずつ机の脇に避けていった。羊皮紙が破れないように、慎重に。一冊、また一冊。その手つきには焦りも怒りもなかった。ただ——丁寧だった。
そして最後の一冊を脇に置くと、彼はフィオナの前に膝をつき、濡れた彼女の両手をそっと包み込んだ。
「……俺も、同じだ」
低く落ち着いた声だった。
「——え」
顔を上げるフィオナの目を、アレクは真っ直ぐに見つめていた。黒い瞳が、ランタンの灯りを受けて静かに輝いている。
「お前が近くにいると——俺の力も、落ち着く。根源力が、お前の根源水に応えてるんだと思う」
フィオナは息を呑んだ。
彼も——同じだったのか。彼もまた、自分の力に悩み、誰にも打ち明けられず、孤独に耐えてきたのか。自分の心を見透かされたような気がした。すべての仮面が剥がされて、裸の自分が晒されるような——そんな感覚。
でも——怖くはなかった。
アレクに見られることは、怖くなかった。
むしろ——
「……ありがとう」
その言葉だけが、自然に口からこぼれた。
フィオナはゆっくりと、アレクの手を握り返した。彼の手は温かかった。自分が溢れさせた水で濡れているけれど——その温もりだけは、はっきりと感じられた。彼女の根源水は、もう溢れていなかった。彼が触れているところから、静かに凪いでいた。
彼女は知ったのだ。
この感情の名前を。
母を亡くしてからずっと閉ざしていた心の扉が——今、静かに開こうとしていた。
◇
長い沈黙の後、フィオナは口を開いた。
「——アレク」
「なんだ」
「あなたの家族が学院に来ると聞いた」
「……ああ」
アレクの表情がほんの少し翳った。ヴァンデルト伯爵家——彼を追放した家族。その家族が近々、何らかの用件で学院を訪れることになっていた。アレクは表面上は平静を装っていたが、フィオナにはわかっていた。彼がどれほど複雑な想いを抱えているか。
「逃げるつもりはない。だが——会いたくないのも事実だ」
アレクが自嘲気味に笑う。
その時、フィオナの中に——今まで感じたことのない、強い感情が湧き上がった。この人を守りたい。この人を一人にしたくない。この人の隣に——立ちたい。
「——私」
フィオナは立ち上がった。濡れたスカートの裾が重い。机の上にはまだ水溜りが残っている。でも——そんなことはどうでもよかった。
「あなたの家族が学院に来る日。必ず、傍にいるから」
アレクの目がわずかに見開かれた。
「……フィオナ」
「一人で背負わなくていい。私が——あなたの隣にいる」
それは、彼女の静かで、揺るぎない決意だった。
侯爵令嬢としての立場も、家のしがらみも、世間体も——彼女はすべてを承知の上で、この言葉を選んでいた。アレク・ヴァンデルトという一人の人間のために——自分にできることを、精一杯やろうと決めたのだ。
アレクはしばらく黙って彼女を見つめていた。それから——静かに笑った。
「お前は、本当に——」
彼はそこまで言って、言葉を切った。代わりに、濡れた床の上に跪いたまま、彼女の手の甲にそっと唇を寄せた。侯爵令嬢に対する礼儀というより——もっと別の、深い意味を込めて。
フィオナの心臓が、大きく跳ねた。
(——ああ。私は。この人のことが——)
好きなんだ。
その言葉は、まだ口に出せなかった。でも彼女は、初めて自分の中にある感情を——認めることができた。
十五歳の夏、母を亡くして凍りついた心が——今、ゆっくりと溶け始めていた。
閉架書庫の窓の外では、いつの間にか雨が止んでいた。雲の切れ間から差し込む夕陽が、濡れた床の水溜りに反射して、小さな虹を作っている。フィオナは静かに目を閉じ、アレクの手の温もりを感じ続けた。
(お母様——私、大丈夫です)
(一人じゃなくなったから)
それが、フィオナ・ラズウェルが十五歳の夏に置き去りにしてきた自分自身を——ようやく取り戻した瞬間だった。
氷の令嬢は、もういない。ここにいるのは——ただ一人の、恋を知った少女だった。
(第二十九章・了)
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