28話 学園祭前夜の騒動
28話 学園祭前夜の騒動
# 第二十八話 追放された息子
学院長室の重厚な扉の前に、ギルバート・ヴァンデルト伯爵と長男マクシミリアンは立っていた。
ギルバートは何度も襟を直し、乾いた咳をひとつ漏らす。指先がわずかに震えているのを、マクシミリアンは横目で見ていた。父が緊張する姿など、生まれてこの方見たことがなかった。
「……父上。本当に、これでよろしいのですか」
マクシミリアンの声は抑えられていたが、その奥には戸惑いが滲んでいる。彼は無表情を装いながらも、拳を握りしめていた。骨が軋むほど強く。
「今更——何を言う。お前も、あの時のことは後悔しているんだろう」
「それは……はい」
三年前。雨の夜。アレクが屋敷を追い出された日のことを、マクシミリアンは一度たりとも忘れたことはなかった。父と母が冷淡に告げた言葉。召使いたちが噂し合う陰口。そして——何より。
(俺は、何も言えなかった)
弟が無属性だと知らされた時、マクシミリアンは驚きはしたが、それだけで終わらせるつもりだった。無属性など前例がない——だからこそ、研究対象として価値があるかもしれない。そう言おうと思っていた。
だが、父と母の決断はあまりにも早く、あまりにも冷徹だった。
「ヴァンデルト家に無属性の落ちこぼれは不要だ」
そう言い放った母の顔を、今でも夢に見る。マクシミリアンは黙り込んだ。反論する勇気が、なかった。自分は後継者として期待されていた。弟を庇えば、その地位すら危うくなるかもしれない——そう考えたのだ。
臆病者。そう罵られる資格は、十分にあった。
「——お入りなさい」
学院長の声に導かれて、ギルバートが扉を押し開けた。部屋に入ると、そこには戦いの場が待っていた。
執務机の上には一冊の分厚いファイル。アレクの入学以来の全成績、全教官からの評価、無属性に関するレナード教授の研究論文が、整然と並べられている。壁には学院始まって以来の天才たちの肖像画——今や、その列に加わるべき若者の記録が、机の上に積み重ねられていた。
学院長ルーカス・フォン・アインツベルンは白髪の老人で、その眼差しは静かでありながら、見る者すべての本質を見抜くかのような鋭さを湛えていた。彼は椅子から立ち上がり、手でファイルを示した。
「これは——御子息の学院での記録です。ご覧になりますか」
ギルバートは無言でファイルを手に取った。ページをめくる手が、わずかに震えている。
「基礎クラス入学後、わずか数ヶ月で上級クラスに飛び級」
学院長の声が部屋に響く。
「中間実力試験全勝。年次剣術魔法大会準決勝進出——ただし、対戦相手を救うために自ら棄権。無属性の理論的研究、古代魔法陣の解読、実戦での無形剣の実用化——すべて学院始まって以来の快挙です」
ギルバートはページを繰る手を止められない。そこには数字と評価の羅列だけではない。教官たちの手書きのコメントが、生々しく残っていた。
「類まれなる集中力。未知の領域に果敢に挑む勇気。そして——何より、他者を思いやる心を持っている」
「無属性というハンデをものともせず、むしろそれを武器に変えた。天才とは、こういう者のことを言うのだろう」
「正直に申し上げて——学院始まって以来の天才と言っても過言ではない」
最後の一文を読み上げた学院長の声は、誇りに満ちていた。それは実の息子を前にした父親ですら口にしたことのない、純粋な賞賛だった。
ギルバートはファイルを閉じ、深く息を吸った。それから——取り繕った笑顔を浮かべて、言った。
「……我々は。彼を連れ戻しに参りました。ヴァンデルト家の——正式な後継者候補として」
学院長は静かに首を横に振った。
「それは——アレク自身が決めることです」
「しかし、私は父親です。親としての権利が——」
「親としての権利、とおっしゃいましたか」
学院長の声は冷たかった。氷の刃のような響きが、部屋の空気を切り裂く。
「三年前、雨の夜に十五歳の息子を通りに放り出した方が、親としての権利を語るのですか。彼が雨に打たれ、空腹に震え、誰も頼る者のない夜を過ごしたことを——ご存じなのですか」
ギルバートの顔から血の気が引いた。マクシミリアンは俯き、ただ拳を握りしめている。爪が手のひらに食い込み、血が滲んだ。
「入学時のアレクは——ご承知の通り、ボロボロの状態でした。身に着けていたのは野良着同然の衣服。所持金は銅貨数枚。それでも彼は——受付でこう言ったのです。『ここで学ばせてください。何でもしますから』と」
学院長は机の引き出しから、一枚の書類を取り出した。それはギルバートの署名が入った追放状だった。伯爵家の紋章入り。正式な文書として保管されていた。
「これを提出したのは彼自身です。入試の審査に必要だからと——誇らしげに、ではない。淡々と、事実として。貴族の子息が学院に入る時、普通は保護者の推薦状を持参するものです。しかし彼は——追放状だけを差し出しました」
ギルバートは言葉を失った。口を開き、閉じ、また開く。だが声にならない。
「連れ戻したい、とおっしゃるなら——直接、彼に申し出てください。ただし、覚悟なさってください。三年の歳月は、決して短くはないのですから」
その時——廊下から足音が聞こえた。
規則正しく、迷いのない足取り。アレクが、別の用事で学院長室に向かう途中だったのだ。扉が開き——三年ぶりの、家族の再会が、誰の予定にもなく実現した。
アレクは一瞬立ち止まった。部屋の中の三人を見渡す——学院長、ギルバート、そしてマクシミリアン。その瞳は冷たく澄んでいた。まるで冬の湖面のように、感情の波ひとつ立たない。
彼は変わっていた。三年前まであどけなさの残っていた顔立ちは、研ぎ澄まされた刃のように鋭くなった。肩幅は広がり、立ち姿には無駄がない。何より——眼光が違った。自信と、静かな強さを湛えた目。追放された哀れな少年の目では、もはやなかった。
「——三年ぶりですね」
それだけだった。たった一言。怒りも、悲しみも、恨み言も何もなかった。ただ——事実を確認するだけの、冷たく乾いた声。
ギルバートは何か言おうとした。だが、その口から出る前に、アレクは背を向けて去ろうとした。
「待て、アレク!」
ギルバートが叫んだ。
アレクの肩が一瞬止まる——が、振り返らなかった。振り返る価値のあるものは、そこには何もなかった。
「アレク——頼む。話を聞いてくれ。わしは——お前を連れ戻しに来たんだ。ヴァンデルト家に戻ってきてほしい。後継者として——」
廊下を歩き去る彼の足音だけが、静まり返った学院長室に響く。
「待ってくれ——私は——」
ギルバートの声が追いかけるが、足音は遠ざかるばかりだった。彼はよろめきながら部屋を飛び出し、廊下を追いかける。
「アレク! 頼む! 父さんが——父さんが悪かった!」
その声に、アレクの足が止まった。
振り返った顔には——微かに、本当に微かにだが、苦さが浮かんでいた。何年も蓋をしてきた感情が、ほんの少しだけ漏れ出たような表情。
「——父さん、ですか」
アレクの声は、静かだった。静かすぎるほどに。
「三年前、雨の中で俺が何度叫んだか知っていますか。『父さん』って。『兄さん』って。何度も、何度も——声が枯れるまで」
ギルバートは立ち竦んだ。顔が青ざめ、唇が震えた。その場にいたマクシミリアンも、顔を上げることができなかった。
「誰も——誰一人、出て来なかった。門は閉ざされたままだった。屋敷の窓からは明かりが漏れていたのに——声は、届かなかった」
アレクの声には、まだ怒りはなかった。ただ淡々と、事実を述べている。それが——何より重かった。
「あの夜、俺は十五でした。金も、泊まる場所も、頼れる人もいなかった。雨に打たれて、空腹で、寒くて——それでも泣きませんでした。泣いたら、終わりだと思った。泣いたら——本当に、一人になってしまうと思ったから」
彼は息をひとつ吐いて、続けた。
「翌朝、市場の裏で残飯を拾って食いました。ゴミの中からです。ヴァンデルト伯爵家の次男が——ゴミを漁って生き延びた。面白い話でしょう」
「やめろ——」
マクシミリアンが絞り出すような声を上げた。彼の目は赤く染まっている。
「やめてくれ、アレク……俺は——俺は——」
「兄さんは、何も言わなかった」
アレクの言葉は、短く鋭かった。
「ただ、黙って見てただけだ。それだけの話です」
「違う——俺は、言おうとしたんだ。でも——」
「でも、何ですか」
アレクは真っ直ぐに兄を見つめた。マクシミリアンはその視線に耐えられず、再び俯いた。
「言おうとしたけど、言えなかった。それは——言わなかったのと同じです。何も変わらない」
沈黙が廊下を満たした。遠くで、下校する学生たちの笑い声が聞こえる。それが——この場の空気とは、あまりにもかけ離れていた。
アレクは再び背を向けた。
「待ってくれ——せめて、話だけでも——」
ギルバートが縋るような声を出した。伯爵としての威厳も、貴族としての誇りも、すべて投げ捨てた——取り戻したいものの前では、そんなものは何の意味も持たなかった。
アレクは立ち止まったが、振り返らなかった。
「何を話すんです。無属性の価値が認められたから、家に戻れと。もし価値が認められてなかったら——俺は今も、存在しない息子のままだった。違いますか」
ギルバートは答えられなかった。その通りだった。もしアレクが学院で成果を出していなければ——彼らの元に、学院からの報告が届いていなければ——ヴァンデルト家は彼を思い出すことすらなかった。
「俺は——戻らない」
アレクの声は、廊下に澄んで響いた。
「ヴァンデルト家に戻るつもりはない。後継者の地位もいらない。あなたたちに許しを請うつもりもないし——あなたたちを許すつもりもない。ただ——もう、関わらないでほしい」
「そんな——」
「俺は今、自分の道を歩いている。自分の力で、自分のやり方で、大切なものを見つけた。あなたたちのいない世界で、俺はちゃんと生きている。それで——十分だ」
アレクは歩き出した。今度は迷いなく、真っ直ぐに。その背中は、もはや追放された少年のそれではなかった。自らの意思で未来を選び取った者の——凛とした姿だった。
校門——そこに、銀色の髪の女生徒が立っていた。
フィオナだ。風に揺れる銀髪が、午後の陽射しを反射して輝いている。彼女はアレクが近づくのを見ると、何も言わずに彼の腕を取った。その動作はあまりにも自然で——ずっとそうしてきたかのようだった。
それから——追いかけてきたギルバートとマクシミリアンに向かって、静かに、しかし誰の耳にもはっきりと聞こえる声で宣言した。
「——この人は。もう、ヴァンデルト家の所有物じゃない」
凛とした声だった。それはフィオナの告白であり、宣言であり——宣戦布告でもあった。
彼女はギルバートの目を真っ直ぐに見つめた。侯爵令嬢としての威厳と、アレクを守ろうとする強い意志が、その小さな体から溢れ出していた。
「この人は学院始まって以来の天才です。無属性の理論を築き、古代魔法陣を解き明かし、誰にも真似できない無形剣を使う——それだけじゃない。誰よりも強くて、誰よりも優しくて、誰よりも——大事な人を守るために、戦える人です」
フィオナは一歩前に出た。アレクの腕を、より強く握りしめて。
「そんな人を——あなたたちは追放した。雨の夜に、着の身着のままで放り出した。今さら何を言っても、もう遅い。彼は——自分でここまで来たんです。あなたたちの助けなんて、一度もなく」
ギルバートはよろめき、その場に膝をついた。伯爵としての人生で、これほどの敗北を味わったことはなかった。息子に去られ、息子を守る令嬢に責められ——何より、すべてが自業自得だった。
マクシミリアンは俯いたまま、声を絞り出した。
「……すまない。アレク。俺は——兄として、何もできなかった。お前が雨の中で叫んでいた夜も——その翌日も——一年経っても、二年経っても、俺は何も。何も、できなかった」
彼の頬を涙が伝った。後悔と自己嫌悪が、堰を切ったように溢れ出した。
「お前が賞賛される度に——学院の成績表が届く度に、俺は胸が痛かった。これは——俺の弟だって。俺が守るべきだった弟だって。なのに——」
「兄さん」
アレクの声が、そこに割って入った。マクシミリアンが顔を上げる。アレクは彼を見ていた——その目には、ほんの少しだけだが、哀れみの色があった。
「兄さんは、俺のことを覚えていてくれた。それだけで——少しだけ、救われた気がします。でも——それだけだ。過去は、変わらない」
「アレク……」
「さよならです、父上——兄上」
アレクはそう言い残し、フィオナと共に校門を抜けた。
ギルバートはその場に立ち尽くした。マクシミリアンは俯き、ただ拳を握りしめている。校門を抜けるアレクとフィオナの背中を——三年前、雨の夜に追放した息子を、今度は自分が見送る番だった。
銀色の髪と、黒い髪が並んで歩き去る。その姿が門の向こうに消えるまで、二人のヴァンデルトは——ただ立ち尽くすことしかできなかった。
学院長室の窓から、ルーカスはその光景を静かに見下ろしていた。彼の口元には、微かな笑みが浮かんでいる。
「——立派になったな、アレク」
彼は机の上のファイルを手に取り、そっと背表紙を撫でた。
「君は——これからもっと大きくなる。誰にも囚われず、自分の信じた道を。学院は、いつでも君の味方だ」
窓の外では、校門を出たアレクが一瞬だけ立ち止まり、振り返った——学院の建物を、そこで膝をついている父の姿を、一瞥する。
そして彼は——もう振り返らずに、フィオナと共に歩き出した。過去を捨て、未来だけを見据えて。
空は高く、雲はゆっくりと流れている。
かつて追放された少年は、もはや誰かの庇護を必要とする弱者ではなかった。自らの足で立ち、自らの手で掴み取った力と誇りを胸に——新たな道を歩み始めていた。
(第二十八話 了)
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