27話 黒い鳥の主
27話 黒い鳥の主
あの黒い鳥の正体が、ついに判明した。
きっかけはレナード教授だった。教授は俺から「演習場に不審な使い魔が現れる」という報告を受けると、独自に調査を始めた。三十年間学院に籍を置く教授には、外部の研究者にはない独自の人脈があった。王都の古文書館に出入りする旧友、貴族街の情報屋、廃嫡騒動に詳しい老執事の元教え子——そういった細い糸を一本一本たぐり寄せながら、教授は静かに真実へと迫っていった。
数日後——教授は一枚の古びた羊皮紙を手に、俺を研究室に呼び出した。
午後の陽射しが差し込む研究室で、教授は重々しい面持ちで窓辺に立っていた。机の上には分厚い魔導書が積み上げられ、壁際の棚には見たこともない標本瓶が並んでいる。魔石ランプの微かな灯りが、羊皮紙の古いインクを浮かび上がらせていた。
「——間違いありません。あの使い魔は、ヴァンデルト家が放ったものです」
教授は羊皮紙を机の上に広げた。そこには、かつてヴァンデルト家が学院に提出した「家門保有魔力資産目録」の写しが記されていた。黄ばんだ紙面には几帳面な筆致で家名ごとの魔力資産が列挙され、オークションでの取得日や鑑定額まで細かく書き込まれている。その中に——「黒鴉の使い魔 三体 監視・情報収集用」という記載があった。取得日は今から約二十年前、まだヴァンデルト家が王都でも指折りの名家として勢いを誇っていた時代だった。
教授は眼鏡を外し、疲れた目をこすりながら続けた。
「ギルバート伯爵は、君の無属性が発覚した直後から密かに情報収集を始めていたようです。あの外典演習で君が力を示した瞬間、伯爵は自分の判断が致命的な過ちだったことに気づいた。『家の汚点』として追放した息子が、実は千年に一度の天才だった——この事実は、ヴァンデルト家の社会的立場を根本から危うくする。だからこそ、真っ先に君の動きを把握しようとしたのでしょう」
教授の言葉は淡々としていたが、その声の奥には長年学院で貴族社会の理不尽を見てきた者の静かな怒りが滲んでいた。俺は机の上の羊皮紙を見つめながら、胸の奥で何かが冷たく固まるのを感じた。
「伯爵は——僕を消そうとしているんでしょうか」
「そこまでは——」教授は首を振った。「しかし、可能性を否定はできません。ヴァンデルト家にとって、君はもはや単なる恥でも、無視できる存在でもない。君の存在そのものが、伯爵家の過去の決定を、ひいては伯爵家の現在の権威を否定している」
俺は深く息を吸った。かつての父の冷たい目を思い出す。鑑定の儀で「無属性」と告げられた瞬間、父は失望と侮蔑の入り混じった表情で俺を見下ろし、そして——二度と視線を合わせることはなかった。あの時のあの目が、今もなお、黒い鳥の瞳となって俺を見つめている。
同じ頃——ヴァンデルト伯爵家の書斎では、ギルバートとマクシミリアンが緊迫した面持ちで向き合っていた。
書斎の暖炉には火が灯り、重厚な樫の机には領地経営の書類が散乱していた。しかし今、二人の注意はすべて、机の上に広げられた数枚の羊皮紙に向けられていた。黒鴉の使い魔が持ち帰った報告書——そこにはこの数週間の学院での情報が、無機質な文字でびっしりと綴られている。
「——父上。早急に手を打つべきです」
マクシミリアンの声は、焦りに満ちていた。いつもは傲然としている彼の顔に、はっきりとした動揺が浮かんでいる。
「あの男は——ただの才能ゼロの落ちこぼれじゃなかった。伝説の無属性だ。しかも学院中から支持されている。上級クラスでの実技評価は全科目最上位、教授連からの信頼も厚い。さらには——フィオナ・アルベール、あのアルベール公爵家の令嬢と親密だという情報まで入っている」
彼は一枚の報告書を指でなぞりながら、声を落とした。
「このまま放置すれば、やがて王室にも——あの男の存在が届く。そうなれば、我々は三年前の追放の理由を、もう一度すべての貴族の前で説明しなければならなくなる」
「——わかっている」
ギルバートは低い声で遮った。窓の外では夕闇が迫り、カーテンの隙間から差し込む橙色の光が、伯爵の硬い横顔を照らしている。指先で机を叩く音だけが、静かな書斎に響く。コツ、コツ、と一定のリズムで続くその音は、彼の焦燥をそのまま表しているようだった。
「……だが、どうする。今さら何ができる」
「学院に接触を——」
「それで、何と言う。三年前に『当家の恥だ』と追放した息子に、今さら『やはり才能があったようだ』と? そんなことをすれば、我々は王都中の笑いものだ。それだけでは済まん。これまでの鉱山事業や鑑定の儀についても、調べられる可能性がある」
ギルバートの声には苦渋が滲んでいた。彼が何より恐れているのは、家名の失墜だ。ヴァンデルト家は三代にわたって王国の鉱山開発を担い、その利権と権威を築き上げてきた。そのすべての礎には、「優れた魔力を持つ血統」という名目があった。しかし「無属性」とされた息子が、実は千年に一度の稀有な才能の持ち主だった——この事実一つで、鑑定の儀の公平性や、ひいては伯爵家そのものの正当性までが疑われる。家名という名の虚構が、音を立てて崩れようとしているのだ。
「では——どうしろと」
マクシミリアンの声は、苛立ちと焦燥と、そしてかすかな恐怖の混じったものだった。
ギルバートは答えなかった。ただ机の上に置かれたグラスを手に取り、琥珀色の液体を一息に飲み干した。氷の音だけがカラリと響き、暖炉の火は静かに揺れていた。
ヴァンデルト伯爵家の書斎に、答えはなかった。
一方、学院では——俺は教授の報告を聞いても、驚かなかった。むしろ、そうだろうと思っていた。あの黒い鳥を演習場の片隅で初めて見た時から——いや、もっと前から。父があの程度で諦めるはずがなかった。あの人はいつだって、自分の決断の結果よりも、他人からどう見られるかを優先する。追放した息子が成功すれば、自分の失策が白日のもとに晒される——それを許すような人間ではなかった。
「——泳がせましょう」
俺は静かに言った。教授は手に持っていた羽根ペンを置き、俺の顔を見つめた。
「相手が動けば動くほど、情報が漏れる。使い魔を通じてこちらの情報が向こうに流れるのは避けられない。でも——それは逆も同じです。向こうが何を考え、何を恐れ、次に何をしようとしているのか。使い魔の動きを観察すれば、ある程度は読める。それに——」
俺は一呼吸置いてから、続けた。
「向こうが焦って動けば動くほど、ミスをする。そのミスこそが、こちらの証拠になる」
教授はしばらく黙っていた。窓の外では演習場から戻る学生たちの話し声が聞こえ、廊下を誰かが走り抜ける足音が響いている。しかし研究室の中だけは、時間が止まっているかのように静かだった。
やがて教授は、少し驚いた顔で俺を見てから、深く頷いた。
「……カルドの村で三年、たった一人で自分の力を観察し続けてきただけのことはある。君は——並の学生よりずっと、状況を冷静に見ている。感情に流されないその冷静さは、おそらく君の最大の武器だ」
教授は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。夕陽に染まる学院の塔を見上げながら、彼は静かに言った。
「私はこれからも調査を続ける。君は君で、やるべきことをやってくれ。だが——くれぐれも無茶はするな」
「もちろんです。僕にはもう——守るべき場所と、信じるべき人たちがいますから」
その言葉に、教授は振り返らずに小さく笑ったようだった。
その夜。
閉架書庫の奥、誰も立ち入らない最古の書架の片隅で、俺はフィオナにだけ真実を打ち明けることにした。
彼女には知る権利がある——いや、彼女だからこそ、知っていてほしかった。学院で初めて俺を一人の人間として見てくれた彼女。外典演習で俺の力を信じてくれた彼女。書庫の奥で夜遅くまで一緒に過ごし、くだらない話をして、時には何時間も黙って本を読んだ彼女。その彼女にだけは、自分のすべてを隠したくなかった。
ランタンの揺らめく灯りが、古い書架の背表紙に長い影を落としている。埃っぽい紙と古い革の匂いが立ち込める空間で、俺は静かに口を開いた。
「……家族が、俺を監視している。黒い鳥は——ヴァンデルト家の使い魔だ」
フィオナは手にしていた魔導植物図鑑を閉じ、菫色の瞳をまっすぐに俺に向けた。ランタンの灯りが彼女の銀髪に映り込み、まるで星が降り注いでいるかのようにきらめいていた。彼女は何も言わず——ただ、ゆっくりと頷いた。驚いてはいなかった。彼女もまた、とっくに気づいていたのだろう。
「……いつから」
「演習場で初めてあの鳥を見た時。勘だけど——確信に近かった」
フィオナは図鑑を机の上に置き、両手を膝の上で組んだ。彼女の瞳は揺るがず、ただ俺の言葉を待っている。
「——どうするつもり」
「今はまだ、動かない。向こうが焦って、ミスをするのを待つ。その間に——こっちは、証拠を固める。使い魔の記録、追放の経緯、鑑定の儀の書類。すべてをきちんと揃えて、いつでも反撃できるようにしておく」
「……危なくないの」
フィオナの声が、ほんの少しだけ震えた。それは恐怖ではなく——心配だった。彼女が誰かのためにそんな声を出すのを、俺は初めて聞いた。
「大丈夫だ。教授も学院長も、味方についてくれている。それに——」
俺は少しだけ笑った。心からの笑みだった。
「カルドの村で三年、好奇と警戒の目に晒され続けた。大人たちは噂話をし、同い年の連中は遠巻きに見て、誰も近づこうとしなかった。そんな日々の中で——一人でいることの強さを知った。今さら、使い魔一羽に監視されたくらいで、動じたりはしない」
フィオナはしばらく俺の顔を見つめていた。菫色の瞳がランタンの灯りを反射して、深い輝きを放っている。彼女の表情はいつも通り静かだったが、その瞳の奥には、言葉にはならない何かが確かにあった。
やがて——ふっと、彼女の口元が緩んだ。
「……それなら、いい」
たったそれだけの言葉だった。けれど俺には、その一言が何よりも重く、温かく感じられた。
フィオナは本を手に取り、再びページを開いた。その横顔はいつも通り静かで、何も変わらないように見えた。でも俺は知っている——彼女は今、この瞬間から、俺の隣で戦うことを決めてくれたのだ。
ランタンの灯りだけが揺れる閉架書庫で、俺たちは静かに、来るべき対決の時を待つ準備を始めた。
ページをめくる音だけが、静かな夜の帳に溶けていく。窓の外では黒い鳥がまだどこかで羽ばたいているが、それももう——怖くはなかった。
俺は手にしていた古い魔導書を閉じた。背表紙には『古代属性論——失われた力の系譜』と刻まれている。カルドの村で独学していた頃には想像もできなかった知識が、今はこの手の中にある。学院がくれたものは知識だけじゃない——信じられる仲間と、守るべき居場所。そして何より、自分の足で立つための勇気だった。
遠くで鐘が鳴る。夜の十一時を告げる学院の鐘だ。そろそろ寮に戻らなければ門限に間に合わない。フィオナは図鑑を鞄に仕舞い、立ち上がった。彼女の銀髪がランタンの灯りに揺れて、一瞬だけ星の欠片のように煌めいた。
「——また明日」
「ああ、また明日」
彼女は小さく手を振ると、閉架書庫の重い扉を押し開け、廊下の闇の中へと消えていった。静寂が戻った書庫で、俺は一人、窓の外を見上げる。夜空には星が瞬き、遠くの方で黒い影が一羽、弧を描いて飛んでいるのが見えた。あれは——たぶん、ヴァンデルト家の使い魔だろう。
俺はその影に向かって、心の中で静かに呟いた。
——見ているがいい。お前たちが何をしてこようと、俺はもう、お前たちの掌の上では生きていない。
そして、閉架書庫のランタンを吹き消した。
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