26話 無形剣の修行
26話 無形剣の修行
剣術大会から一週間が過ぎた。学院は静かに、しかし確実に、いつもの日常を取り戻しつつあった。朝の鐘が鳴り、学生たちが教室へと流れていく。訓練場からは竹刀の打ち合う乾いた音が響き、食堂からは焼きたてのパンの香りが漂う。すべてが——表面上は——平穏そのものだった。
でも、俺の中で、何かが変わっていた。はっきりと、決定的に。
胸の奥底に、黒く冷たい塊が居座っているような感覚。それは怒りでも、憎しみでもない。もっと深い——根源的な何か。ヴァンデルトという家そのものに対する、拭いきれない違和感。そして——自分の過去に対する、埋めようのない空白感。
あの大会最終日——決勝戦を終えて、観客席を見上げた瞬間の記憶が、まるで呪いのように繰り返し蘇る。マクシミリアン兄上の顔。三年前と変わらぬ、冷徹で無表情な仮面のような顔。貴族として完璧に整えられた、隙のない佇まい。でも——俺は見逃さなかった。ほんの一瞬だけ、その仮面に走った微かな動揺のひびを。
兄上の顔色が変わった瞬間が、どうしても頭から離れなかった。俺という存在が、あの場にいるはずのない人間が、実際にそこに立っている。それだけで——彼らの築き上げてきた「平穏」が、音を立てて揺らぎ始めている。その確信が、俺の中で日増しに強くなっていった。
ならば——こちらも動くべきだ。相手が何かを仕掛けてくる前に。向こうが俺の存在に気づき、対策を講じる前に——こちらから真実を掴みに行く。待っているだけの人間に、過去は決して語りかけない。
「——ヴァンデルト家の過去を、調べたいんです」
放課後の研究室で、俺は意を決して打ち明けた。窓から差し込む夕陽が、レナード教授の背後の本棚を橙色に染めている。薬品の微かな匂いが漂う室内で、教授は丸眼鏡を押し上げ、しばらく黙って考え込んだ。隣に座るフィオナも、手にしていた書物を静かに閉じて、俺の言葉の重みを測るように沈黙している。
「……なるほど」教授はようやく口を開き、ゆっくりと頷いた。「君の追放の裏に、何かあると。家名に傷をつけた不肖の息子——それだけの話ではないと」
「確証はありません。でも——」
俺は言葉を切り、窓の外に目をやった。校庭では、遅くまで訓練に励む学生たちの姿が見える。彼らにとって、貴族の家の問題など遠い世界の出来事だろう。だけど、俺にとっては——今この瞬間の、すべてだった。
「あの家は、ヴァンデルトの家名を守るためなら、何でもする家です。俺が『恥』として追放されたのも、もしかしたら——」
「もっと大きな何かを隠すための、都合のいいスケープゴートだった、と」
フィオナが静かに、俺の言葉を引き継いだ。その声には、怒りよりも深い共感が滲んでいた。
俺は無言で頷いた。
教授はゆっくりと立ち上がり、壁一面を埋め尽くす棚の前で立ち止まった。背表紙の古びたファイルを指でなぞりながら、目当てのものを探し当てる。学院が公的に保持している、貴族家の魔力鉱山に関する記録簿だった。分厚いファイルを机の上に広げると、積もった埃が夕陽の中で静かに舞った。
「これを見てください」
教授の指が、あるページを指し示した。ヴァンデルト家が所有する三つの鉱山の一覧——北の山脈に一つ、西の渓谷に一つ、そして王都近郊にもう一つ。貴族としての格式を保つには、魔石産出は不可欠な収入源だ。だが——
「うち二つは、ここ五年の採掘量が、公式報告と実測で大きく食い違っている」
教授は眼鏡の奥の目を細め、数字の並んだ欄を指でなぞった。
「特に北の鉱山——ここからは高品質の魔石が採れるはずだ。地質調査の記録からも、それは明らか。だが」
ページがめくられ、今度は納税記録が示される。北の鉱山の項目には、目を疑うような低い数字しか記載されていなかった。
「……つまり、無許可で採掘して、横流ししている」
「可能性は、極めて高い」
俺は数字を凝視した。単なる節税対策ではない。この規模の食い違いは——計画的で、組織的な隠蔽の匂いがする。魔石の違法取引は、貴族の特権を奪われるほどの重罪だ。それを承知で手を染めているなら——。
フィオナが隣で、静かに口を開いた。彼女はずっと、何かを考え込むように俯いていたのだ。
「鑑定の儀の記録も、調べてみたらどうかしら」
「鑑定の儀?」
「ええ——ヴァンデルト家と同じ年に、『才能値異常』を理由に再鑑定になった家が、少なくとも三件あるはずよ。図書館の古い記録で、たまたま見つけたの」
フィオナは手帳を開き、そこに書き留めてあった家名を読み上げた。いずれも中小の貴族家で、ヴァンデルト家とは表面上なんの繋がりもない。だが——共通点があるとすれば。
「全部、ヴァンデルト家の鉱山と取引のある家だ」
教授が深く頷いた。「鑑定の儀の結果に不正が行われたとすれば——それ自体が、鉱山の不正を隠蔽するための、連鎖的な工作だった可能性がある」
調査は、そこから一気に加速した。
フィオナは図書館にこもり、公的記録の山と格闘した。貴族院の議事録、鑑定台帳の写し、王室への申請書類——彼女の情報整理能力は驚異的で、ばらばらだった情報の断片が、彼女の手によって少しずつ一本の線で結ばれていく。
教授は学術的観点から分析を進めた。魔力測定値の統計的異常、鉱山からの魔石採掘量の理論値と実測値の比較、鑑定の儀における儀式陣の構造解析——どれも専門的な知識を要する分野だったが、教授は淡々と、しかし迅速に作業を進めてくれた。
そして俺は——王都の商業ギルドへの聞き込みに出向いた。変装をして、身分を偽って。幸いなことに、俺はもともとヴァンデルト家では「存在しない」ことにされていた三男だ。顔を知る者は少ない。それを逆手に取って、下働きの商人としてギルドに潜り込んだ。
魔石の取引記録。仲介業者の名簿。違法な高値取引の噂。そして——。
「——おい、ヴァンデルト」
学院の廊下で、突然背後から呼び止められた。振り返ると、ユリウス・クラインが壁にもたれて腕を組んでいた。夕暮れ時の薄暗い廊下に、彼の金髪だけが妙に浮かび上がって見える。
「お前の実家が、なんかきな臭いらしいな」
「……よく知ってるな」
「当たり前だ。俺の家も伯爵家だ。社交界で何が噂になってるかくらい、すぐ耳に入る」
ユリウスは一歩、二歩と近づいてきた。かつての傲岸不遜な態度は鳴りを潜め、代わりに真剣な眼差しが俺を見据えている。
「ヴァンデルト家の内偵を、誰かがやってる——そういう噂が、もう出回ってる。お前だろ。違うか」
俺は答えなかった。沈黙が、そのまま肯定だった。
ユリウスは少し迷うように天井を見上げてから、声を潜めて言った。
「俺にも、手伝わせろ」
「……は?」
「クライン家の情報網を使えば、商業ギルドや貴族院の内部資料にも手が届く。お前一人でちまちまやってちゃ、時間がかかりすぎる。いや——時間だけじゃない。危険すぎる」
「なぜ、そんなことを——」
「借りを返すだけだ」
ユリウスは苦笑した。自嘲めいた、珍しい表情だった。
「剣術大会の——あの日の借りをな。お前は俺の全力を受け止めて、その上で勝った。それに——」
彼は廊下の窓の外に目を向けた。
「俺も、貴族社会の腐った部分は、嫌いなんだよ」
かつて俺を『無能』と嘲弄し、剣術大会では敵として立ちはだかった男が——今や、自分から協力を申し出ている。その皮肉さに、思わず口元が緩んだ。
「……恩に着る」
「当たり前だ。後でたっぷり返してもらうからな」
ユリウスが去った後、廊下に残された俺の口元には、確かな笑みが浮かんでいた。
集まった証拠は、膨大なものになった。
違法な魔石採掘の記録。鑑定の儀における不正操作の可能性を示す複数の状況証拠。商業ギルドでの架空取引の痕跡。そして——俺が追放された年、ヴァンデルト家が王室に提出した『家門健全性報告書』の写し。そこには冷たく、事務的な文字で——「三男の失踪は、自主的な家出によるもの」と、明確な虚偽の記載がされていた。
自主的な家出——。俺はあの日、冬の庭先で、自分の足でヴァンデルト家を去った。だから、字面だけなら嘘ではないかもしれない。でも——追い詰められて、家から出ていく以外の選択肢をすべて奪われた末の決断を、「自主的」と片付ける欺瞞。俺の存在そのものを、最初からなかったことにしようとする意志。
家名を守るために。ヴァンデルトの名に傷がつかぬように。それだけのために——。
俺はすべての資料を整理し、一つのファイルにまとめた。教授とフィオナ、そしてユリウス——三人の協力がなければ、これだけのものを集めることはできなかった。一人ひとりの顔を思い浮かべながら、俺は学院長の執務室の扉を叩いた。
学院長は静かに資料を受け取り、長い時間をかけて一枚一枚に目を通した。表情は変わらない。だが、時折深く息をつく仕草が、その胸中の重さを物語っていた。
「——預かります」
学院長はようやく顔を上げ、重々しく頷いた。
「必要な時が来たら——学院として、全面的に君を支援する。この学院は——どんな家柄よりも、真実と正義を重んじる場だ」
「……ありがとうございます」
執務室を辞して、廊下に出る。窓の外はすっかり暗くなり、学院の敷地を照らす魔導灯がぽつりぽつりと灯り始めていた。冷たい夜風が、熱くなった頬を心地よく撫でていく。
これで——反撃の準備は整った。あとは——機を待つだけだ。
ヴァンデルト家が次に動くのか、それとも——こちらから仕掛けるのか。どちらにせよ、もう後戻りはできない。いや——後戻りするつもりなど、最初からなかった。
夜空を見上げると、雲の切れ間から星が一つ、鋭く瞬いていた。まるで、これからの戦いを見守っているかのように。
俺は拳を握り、胸の奥で静かに誓った。過去を取り戻すために。自分の存在を、自分の意志で証明するために——必ず、この戦いに勝つ。
——だが、その前に。
脳裏をよぎるのは、あの冬の日の光景だった。雪の積もったヴァンデルト家の庭園。凍りつくような風。そして、父上の冷たい眼差し。追放を言い渡された俺に、父はただ一言だけを残した。「お前はもはや、ヴァンデルトではない。」その言葉が、三年間ずっと俺を縛り続けてきた鎖だった。血の繋がりを否定される痛みは、肉を裂かれるよりも深く、骨を砕かれるよりも重い。
けれども——もう違う。あの鎖は、今や俺の手で断ち切ろうとしている。血の繋がりではない。家名の重みでもない。俺自身が何者であるか——それを証明するための戦いが、今、始まろうとしていた。
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