25話 剣術大会への道
25話 剣術大会への道
剣術魔法大会の熱狂が冷めやらぬ王都。
午後の陽射しが街路樹の葉を透かして石畳に落ちる頃、最も話題になっていたのは——優勝者の名前ではなかった。
「聞いたか、ヴァンデルト家の三男の話を」
酒場の隅、黒ビールの泡がグラスの縁から溢れそうなテーブルを囲んで、三人の貴族が声を潜めている。
「才能ゼロで追放されたはずだろう」
「それが実は——無属性だってな。伝説の根源属性だそうだ」
「しかも準決勝で自ら棄権して、相手を救ったんだと」
片隅のテーブルでエールを傾けていた退役騎士が、耳をそばだてた。しわくちゃの手でグラスを掴んだまま、動かない。
王都の社交界——貴族たちが集うサロンや夜会、あるいは昼下がりのお茶会。窓から差し込む午後の光がティーカップの縁を金色に染める中、どこに行っても話題の中心はアレク・ヴァンデルトだった。人々がスコーンに手を伸ばす間も、紅茶を注ぐ間も、その名が飛び交わない瞬間はない。
単に「無属性」という未知の力が珍しいからではない。
追放された三男が、家族に見捨てられたはずの子供が——たった三年で、王国最大の魔法の舞台に立ち、全ての観客を圧倒した。その劇的な逆転劇が、貴族たちの好奇心を強く刺激していた。知らない者同士が、アレクの話をきっかけに会話を始め、名刺を交換し、やがて政治や商売の話に移っていく——そんな光景が、王都のあちこちで繰り返されていた。
暖炉の火が踊るラングレー伯爵家のサロン。高い天井から吊るされたシャンデリアの灯りが、磨き抜かれた大理石の床に揺らめいている。
ワイングラスを傾ける貴族たちの声が、壁に掛かった先祖代々の肖像画に吸い込まれていく。
「ヴァンデルト伯爵は、あの才能を——見抜けなかったのか」
「見抜けなかったどころか、自ら追い出したんだぞ」
「宝石を道端に捨てたようなものだな」
「しかも準決勝で棄権——勝ちを捨ててまで相手を救うとは。貴族の鑑だ。あの年齢で、あの判断。血は争えんということか」
声の主の一人——若い子爵が、苦笑いを浮かべながらグラスを回した。ルビー色のワインがガラスの内側に弧を描く。
「皮肉なものだな。アレクの評価が上がれば上がるほど——」
彼はそこで言葉を切った。口にしなくても、この場にいる全員が続きを知っていたからだ。ギルバート・ヴァンデルト伯爵の評価は、落ちるばかりだということを。
同じサロンの奥、窓際の席で、ラングレー伯爵当主が渋い顔でワイングラスを回していた。先日まで「ヴァンデルト家の長男と娘の婚約」を喜んで祝杯を挙げた人物である。彼の指が、無意識にグラスの縁をなぞっている。
「婚約は——いや、まだ白紙に戻すとは言っていない」
隣に座る夫人に向けて、彼は声を潜めた。暖炉の薪が爆ぜる音に紛れるように。
「しかし、家名に傷のついた家と縁を結ぶのは、娘の将来に関わることだ。社交界での立場、縁談そのものへの風評——考えれば考えるほど、割に合わん」
夫人は何も答えなかった。ただ、窓の外に目を向けたまま、ティーカップをソーサーに戻した。陶器の触れ合う音だけが、不意に大きく響く。
「それに——」伯爵は続けた。声がさらに小さくなる。「もしあの三男が、いずれヴァンデルト家に戻るようなことがあれば——いや、むしろ戻らないほうが、家としては問題だ。後継者争いが、泥沼になる」
これが意味することは、一つだけだった。
マクシミリアンの婚約話が——危うくなっている。
取引先の貴族たちも、少しずつヴァンデルト家との距離を取り始めていた。それはまるで、潮が引くように静かで、しかし確実な動きだった。昨日まで熱心に挨拶してきた相手が、今日は会釈だけで通り過ぎる。明日は——会釈すらないかもしれない。
「伯爵、例の鉱山事業の話ですが——」
「ああ、それならまた今度」
「先日まであれほど乗り気だったのに。契約書の草案まで用意していたというのに」
その会話を廊下で耳にしたのは、ヴァンデルト家の老執事だった。彼は息を殺し、柱の影に身を隠した。七十を超えた耳でも、聞き間違えようのない言葉だった。
夕食の席で、執事はその内容をギルバートに伝えた。できるだけ正確に、できるだけ感情を交えずに。伯爵は何も言わず、ただナイフを置いた。銀器が皿に触れる音が、やけに大きく食堂に響いた。スープの湯気だけが、揺れていた。
そうした噂や変化は、すべてギルバート・ヴァンデルトの耳に入っていた。届かない情報は、もはや一つもなかった。
彼は書斎に籠もり、届く報告書の束を前に、ただ黙って窓の外を眺める時間が増えていた。窓ガラス越しに差し込む夕陽が、机の上の書類をオレンジ色に染めている。インク壺の影が、長く伸びていた。その光の中、細かな埃だけがゆっくりと舞っている。
報告書の一枚には、こうあった。「先月までの主要取引先十二件のうち、三件が契約更新を保留。二件が契約期間満了後の『再検討』を表明」
暖炉の火が弱まり、部屋の隅に影が伸び始めた頃——ギルバートは筆を置いた。書きかけの手紙は、結局一行も進んでいなかった。白い紙の上で、乾いたインクの滲みだけが広がっている。
(才能が——ゼロだったはずだ)
十三年前の春。家庭教師が首を振りながら言った言葉が、まだ耳に残っている。
「申し上げにくいのですが——三男様には、いかなる属性の適性も見られません。これまでの測定で、これほど完全にゼロという例は——」
その時のアレクの顔を、ギルバートは覚えていなかった。覚えているのは、自分が報告書に署名したという事実だけだ。
その夜。冬の終わりを告げる冷たい夜気が、書斎の窓を微かに震わせていた。暖炉の火だけが灯り、壁に掛かった歴代当主の肖像画が、油彩の静かな眼差しで室内を見下ろしている。
初代当主。三代目——鉱山事業で財を成した男。五代目——彼の代で伯爵位を得た。
ギルバート・ヴァンデルトは八代目だった。その肩に、家の歴史すべてが乗っている。
扉がノックされた。二度。控えめな音だった。
「……入れ」
入ってきたのは、長男のマクシミリアンだった。学院の制服をまだ着たまま——寮から呼び出されたのだろう。襟元が少し乱れている。急いで来た証拠だ。
父の書斎に呼ばれる理由を、彼はすでに察していた。察しているからこそ、入ってくるなり暖炉の前に立ち、父の顔をまっすぐ見ることができなかった。
「——学院に行け。アレクと、話をつけてこい」
暖炉の薪がはぜた。火花が一瞬、ギルバートの顔の皺を照らし出す。影が深くなる。
マクシミリアンはしばらく黙っていた。父の言葉が、壁に吸い込まれて消えるのを待つように。歴代当主の肖像画の視線が、痛かった。
やがて——力なく首を横に振った。
「……どうやってです。父上」
声は低く、しかし妙に通った。肖像画に跳ね返るような硬さがあった。
「我々は彼を——才能ゼロと断じ、雨の夜に追放した。その彼が今、学院で英雄扱いされている。それに対して、我々が何を言えるというのです」
マクシミリアンの指が、わずかに震えていた。彼はそれを隠すように、背中で両手を組んだ。制服の袖口が、かすかに擦れる音を立てる。
「『実は見込みがありました』?『戻ってきてくれませんか』?どの口が——どの顔で、彼の前に立てるというのです」
「しかし——このままでは家が——」
「家が、ですか」
マクシミリアンの声に、はじめて感情が混ざった。それは怒りとも悲しみともつかない、くぐもった響きだった。
「父上はいつも——家のため、家のためと。そのために弟を切り捨てた。今度は——家のために、弟に頭を下げろと、そうおっしゃるのですか」
その言葉を口にした瞬間、マクシミリアンは——はっと息を呑んだ。
自分で言っていて、その言葉の空疎さに気づいたのだ。父を責める資格が、自分にあるのか。
追放の日。雨が窓を叩くあの夜。
父の決定に異を唱えなかった。むしろ——口元を歪めて、弟の絶望を嘲笑ったのは、自分だった。玄関ホールの冷たい空気。弟が最後に振り返った時、自分の口元にはまだ笑みが残っていた。
アレクの目を、今でも覚えている。玄関の石段で、雨に打たれながら振り返ったあの目。怒りでも悲しみでもない——ただすべてを諦めたような、底のない暗さ。黙って傘も差さずに、雨の中を歩いて行った後ろ姿が、やけに小さかった。
(今さらアレクに会いに行く資格など——どこにもない)
マクシミリアンは目を閉じた。まぶたの裏に、あの日の雨がまだ降っていた。
「……俺には、できません。父上、俺は——」
言葉が続かなかった。
「そうか」
ギルバートは深く息を吐いた。それはため息ではなく——何かを決断した時の呼吸だった。肩の力が、ふっと抜ける。
「……わしが、行く」
マクシミリアンが顔を上げた。暖炉の火が、彼の瞳の中で小さく揺れている。
父は書斎机の引き出しを開けた。古い木のきしむ音。中から彼が取り出したのは——小さな鉱石の欠片だった。透明な石英。内部にかすかに虹色の光を閉じ込めた石。表面には細かな傷が無数について、使い込まれたことが一目でわかる。
「これは……」
「三年前、追放の翌朝だ。お前がアレクの部屋から見つけて、そのまま——」
ギルバートはその石を掌に乗せて、じっと見つめた。暖炉の火が石英の中で揺れ、虹色の光が彼の皺の刻まれた手のひらを踊った。小さな石が、まるで鼓動しているかのように見えた。
あの日——アレクが幼い頃に魔法の練習に使っていた、ただの石ころだった。庭の隅で、何時間もそれを握りしめて、魔法を発動させようとしていた。一度も成功しなかったのに。それでも毎日、毎日、手が擦り切れるまで握り続けていた。
「——才能が、ゼロだったはずだ。それなのに——」
ギルバートの声は、枯れ木のようなかすれ声だった。彼は石を握りしめた。老人の指に力が込められ、関節が白くなる。
「わしは——何を見ていたのだ」
マクシミリアンは何も言えなかった。ただ、父の手の中の石を見つめていた。子供の頃、弟が飽きることなく魔法の練習に使っていた石。家族の中で誰よりも熱心で、誰よりも長く練習していたことを——今、ようやく思い出した。
一方——同じ頃。
書斎での父と兄の会話を、廊下でこっそり聞いていたもう一人の息子がいた。
次男のエドガーだ。
壁に背中を押し当て、息を殺して立っていた。暖炉の火が揺れるたび、廊下の壁に自分の影が伸びては縮む。心臓の音が大きすぎて、見つかるのではないかと何度も思った。
元々は——夜中に喉が渇いて、厨房に水を飲みに行こうと部屋を出ただけだった。それが、書斎から漏れる父の声に足を止めた。
(学院に行け——アレクと話をつけてこい)
その言葉を聞いた瞬間、エドガーの喉が詰まった。水を飲む理由が、消えた。
会話が終わり、足音が遠ざかる。エドガーは音を立てないように廊下を引き返した。絨毯が足音を吸い込む。自室に戻り、静かに扉を閉めた。
机の前に座る。月明かりだけが窓から差し込んで、室内を青白く染めていた。
ペンを取り出した。
インク壺にペン先を浸す。手が震えていた。インクの滴が、白い紙の上に落ちた。まっすぐな線が書けない。
『アレクへ』
ペン先が止まる。
——違う。今さら「アレクへ」ではない。子供の頃、そう呼んでいた。顔も見たくないと無視したのも自分だ。今その呼び方をする資格が、どこにある。
紙を丸めて捨てる。
『弟へ』
——何様のつもりだ。「弟」だと。追放の日、玄関でマクシミリアン兄上が嘲笑った時——自分は何をした。何もしなかった。見ているだけだった。それどころか、いなくなってほっとした顔さえ、していたかもしれない。
また紙を丸める。
『アレク・ヴァンデルト様』
——他人行儀すぎる。逃げているだけだ。こんな手紙に、何の意味がある。
三枚目の紙を破り捨てた時、エドガーの手が止まった。指先から力が抜け、紙片が床に散った。
窓の外はまだ暗かった。月明かりが机の上に白く落ちている。ペン先だけが、その光を受けて鈍く光っていた。窓ガラスに映った自分の顔が、ひどく疲れて見える。
何度も書き直し、何度も破り捨て、夜が明けるまでそうしていた。
東の空が白み始め、小鳥のさえずりが聞こえ始めた頃——エドガーはようやく、ペンを置いた。
目の下に濃い隈を作り、指先はインクで黒く染まっている。右手の人差し指は、ペンだこが赤く腫れていた。床には、丸められた紙の山。どれも、途中で投げ出された言葉たちだ。
机の上に残ったのは——たった一通の手紙だった。
宛名は「アレク・ヴァンデルト様 魔法学院気付」。
中にはただ、こう書かれていた。
『すまなかった。何もしなかった自分を、許してほしいとは思わない。ただ——一度だけ、話をさせてほしい。それだけだ。エドガー』
たった四行。それ以上でも、それ以下でもない。余計な言い訳も、自分を正当化する言葉も、何一つとして入っていなかった。エドガーはそれを三度読み返し、そして——それでいいと思った。これ以上足す言葉はなかったし、これ以上削る言葉もなかった。
封蝋を押す。小さなロウソクの火で溶かした赤い蝋が封筒の上に落ち、エドガーはその上に家紋の印章を押し当てた。ヴァンデルト家の鷲の紋章が、赤い蝋の中に浮かび上がる。
朝日が窓から差し込み、机の上のインク壺を金色に染めている。丸めた紙の山にも光が当たり、そこに書かれていた無数の書き損じの言葉たちが、ほのかに透けて見えた。
学院への使者に手紙を託すために立ち上がった時——エドガーは、三年ぶりに背筋を伸ばしていた。
玄関で、馬に乗る使者に封筒を手渡す。使者は何も聞かず、手紙を受け取って馬を走らせた。蹄の音が石畳に響き、朝靄の中に消えていく。
それが届くかどうかは——わからない。
届いたとして、読んでもらえるかどうかも。あるいは読まれても、そのまま暖炉に投げ込まれるかもしれない。
それでも——エドガーは三年間何もできなかった自分に、初めて、行動を許したのだった。
朝の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んで、彼はゆっくりと、自室へ戻った。机の上のペンが、朝日に照らされてきらめいている。インクはまだ、乾いていなかった。
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