23話 フィオナの秘密
23話 フィオナの秘密
準決勝まで、俺の戦いはすべて一方的だった。
二回戦の相手は風属性の三年生。旋土で足場を奪い、相手が体勢を崩したところに風刃——勝負は開始から二十秒でついた。三回戦の相手は土属性の四年生。鏡水で攻撃を三度反射し、相手が自分の魔法の威力に耐えきれずに膝をついた。準々決勝は水属性の上級生で、防御に秀でた相手だったが——鏡水で水流を逆用し、相手のバランスを崩したところに旋土で押し込んだ。
どの試合も無形剣の三型——鏡水、旋土、風刃——だけで終わらせた。第四型「炎壁」はまだ使っていない。第五型「還」はそもそも記録が失われている。それでも十分だった。
観客席からは、回を重ねるごとに空気が変わっていった。
「また一瞬だ」「三連続であの速さ——いや、むしろ試合ごとに速くなってる」「無属性ってのはここまで次元が違うのか」
もはや「一年生の快挙」とか「番狂わせ」という言葉では片付けられない。学院始まって以来の天才が、今この舞台で実力を開花させている——観客たちは、そう確信し始めていた。
そして——準決勝。
対戦相手は、ユリウス・クライン。
大会前から優勝候補の筆頭に挙げられていた火属性A級のエリート。ここまで彼もまた、すべての試合で相手を圧倒して勝ち上がってきた。その火炎の出力と制御の精密さは群を抜いていて、上級生相手でも常に三手先を読んだ戦いをする。金髪をいつも通りオールバックに撫でつけ、学院の制服ではなく真紅の戦闘服に身を包んだ彼が闘技場の中央に姿を現した瞬間——貴族子弟ブロックから、割れんばかりの歓声が上がった。
「ユリウス! やれ!」「火属性の意地を見せろ!」「無属性なんかに——」
ユリウスは観客の声援に手を挙げて応えてから——ゆっくりと、俺に向き直った。
「——来たな、ヴァンデルト」
彼の声は、かつて教室で俺を嘲弄した時とはまるで違っていた。軽蔑も、見下しも、優越感もない。代わりにあるのは——ただ純粋な闘志だけだった。自分より下だと思っていた男が、今や最大の壁として立ちはだかっている。その事実を正面から認めた上で、それでもなお——勝つ。
「ああ」
「お前には、一度も勝っていない。教室で馬鹿にした時も——中間試験の後の廊下で突っかかった時も——ずっと、お前の背中ばかり見てきた」
ユリウスは短杖を構えながら、自嘲気味に口元を歪めた。
「正直——怖かったんだと思う。お前の存在が。家柄も、才能も、何も持っていないはずの男が——なぜ俺より強いのか。その答えを認めるのが怖くて、だからずっと——お前に突っかかってた。でも、今日でそれも終わりだ」
彼の手の中で、短杖の先端が赤く輝き始める。
「俺の火属性の全力を——その無属性とやらで、受け止めてみせろ」
審判の腕が振り下ろされた瞬間、闘技場の空気が震えた。
ユリウスは最初から全力だった。彼の全身から噴き出した炎が闘技場の石畳を舐め、観客席の前列に座る貴族たちが熱風に顔をしかめる。直径十メートルはあろうかという火炎の柱が彼の周囲を取り巻き、その中心に立つ彼の姿が陽炎のように揺らめいた。これまでのどの対戦相手とも——明らかに、次元が違う。
「——火炎衝!」
巨大な火柱が、轟音と共に俺に向かって殺到した。その熱量は火属性A級の上限を優に超えている。観客席から悲鳴にも似たどよめきが上がった——直撃すれば、おそらく防ぎようがない。
俺は半歩後退しながら右手を掲げた。
「——鏡水」
無色の光の膜が、直径三メートル近くまで広がる。火柱が鏡面に着弾し——吸収され、反射される。だがユリウスはすでに動いていた。鏡面ができあがるより早く放たれた第二波、第三波の火球が、反射された炎に次々とぶつかり——相殺していく。
「どうした、ヴァンデルト! 防御だけじゃ俺は倒せないぞ!」
彼は無属性の反射パターンを完璧に分析してきていた。反射した炎には追加の火球で対応し、こちらが攻勢に出る隙を与えない——。
「——わかってる」
俺は旋土を展開して間合いを取る。渦巻く土煙が視界を遮り、ユリウスの火球の狙いを逸らす。そして土煙の隙間から風刃を放つが——ユリウスは火の壁を何層にも張り巡らせて、風刃を拡散させて防いだ。
(——この男、確かに強い。人間の意志で火をここまで精密に制御できるのは、才能だけじゃない。膨大な努力の積み重ねだ)
だが——それなら。
俺はすべての型の展開を解除した。鏡水も、旋土も、風刃も——すべてを消し、代わりに根源力そのものを右手に集中させる。無色の光が、小さな球となって掌の上に収束していく。観客席がざわついた——何が起きるのか、誰にもわからない。
(——教えてくれたな、教授。無属性はすべての元素の根源。つまり——すべての元素を、根源に「還す」ことができる)
「——分解」
無色の光の球が、吸い込まれるようにユリウスの火炎の中に飛び込んだ。次の瞬間——彼の周囲を覆っていた十メートルの火柱が、根元から——まるで逆再生の映像のように、すうっと、消えた。
火が、火でなくなった。根源力が火の属性を「ほどいて」、分化する前の未分化の魔力に還元したのだ。炎を失ったユリウスは、自分の両手を呆然と見つめた。何度魔力を込め直しても、掌から火の粉一つ出てこない。彼は声を震わせて言った。
「……お前、俺の火を——なにを」
ユリウスの魔力制御は、この瞬間から乱れ始めていた。火属性A級としての絶対の自信——その根幹を揺るがされた動揺が、感情の乱れを生み、感情の乱れが魔力制御を狂わせる。彼は必死に魔力を絞り出したが——それは、制御するにはあまりにも不安定なものだった。
彼の右手に、巨大な火球が膨れ上がった。だがそれは——本人の意志とは無関係に膨張し、脈打ち、そして——彼の手を離れた。
飛んだ先は——観客席。
「——やめろっ!」
ユリウスが絶叫する。だが、火球は止まらない。彼は自分の杖を投げ捨てて火球を追おうとしたが、間に合う距離ではなかった。誰もが息を呑み、前列の観客が身をすくめた。
その瞬間。
俺は動いていた。
「——鏡水」
練習で一度も使ったことのない規模だった。闘技場の床から天井までを覆う、巨大な光の壁。観客席の全面を守るように展開された無色の膜が、暴走した火球をまるでクッションのように受け止め——包み込み——そして、ゆっくりと、静かに、消滅させた。
火球は誰にも届かなかった。焦げた匂いと、静寂だけが、闘技場に残された。
沈黙は、数秒だったか、あるいはもっと長く続いたか。
それを破ったのは——カラン、という金属音だった。ユリウスの短杖が、彼の手から落ちて石畳に転がった音だ。彼は、その場に膝をついていた。肩が震えている。火属性A級のエリート。学年主席。優勝候補。そんな肩書きが——今、一瞬で崩れ去った。
制御ミス。感情の暴走。観客を危険に晒した。どれも、魔法使いとして致命的な失態だった。それ以上に——自分が、自分自身の力に呑まれた。その事実が、彼の誇りを根こそぎ奪っていった。
観客席はまだ静かだった。誰もが、今起きたことを咀嚼できずにいる。
俺は無形剣の構えを解き、ゆっくりと呼吸を整えてから——審判の方に向き直った。
「——審判。この試合——俺の棄権とします」
「……は?」審判が絶句した。「しかし、試合はまだ——」
「十分です。勝敗は、もう決まっています」
観客席が大きくどよめいた。誰もが耳を疑っている——この試合を有利に進め、相手の暴発すら防いだ男が、自ら勝ちを放棄する。信じられない、というざわめきが拡散していく中で——膝をついたユリウスが、かすれた声を絞り出した。
「……なぜだ」
顔を上げた彼の目には——怒りも、悔しさも、そして——言葉にできない困惑が渦巻いている。
「お前が勝ってた。火の分解も、あの鏡水も——全部、お前の勝ちだった。なのになぜ——なぜ勝ちを、捨てる」
俺は膝をついたユリウスに歩み寄り、手を差し伸べた。
「勝ち負けより——守るべきものがある」
ユリウスの目が、大きく見開かれた。彼は俺の手をじっと見て——それから顔を伏せて、絞り出すような声で、言った。
「……俺は。俺の価値は——いつも勝つことだけだった。家柄も、才能も——誰かに勝つことでしか、証明できなかった。だからお前が怖かった。お前に負けたら——俺は、何も残らないと思ってた」
「——違う」
俺は手を引っ込めずに、静かに言った。
「お前は——ここで、自分の弱さを認めた。それだけでもう、以前のお前じゃない。それを受け入れることが、本当の強さだ」
ユリウスは、震える手で——俺の手を取った。
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