19話 閉架書庫の二人

才能ゼロで追放された三男、実は最強の無属性でした2026-06-01 16:20:43

19話 閉架書庫の二人

中間実力試験の朝、学院の大演習場はかつてない熱気に包まれていた。
普段は授業で使われるだけのこの広大な石畳の闘技場が、今日は全学年の全学生と全教官、さらには王都から招かれた来賓貴族たちで埋め尽くされている。観客席には学年ごとの色とりどりの旗が風に翻り、それぞれの応援ブロックからは仲間を鼓舞する声が絶え間なく響いていた。受験者は全員、学年章を外して不公平を排する仕組みで、一年生も三年生も同じ舞台で戦うことになる。秋の終わりの冷たい空気の中で、学生たちの吐く息だけが白く立ち昇っている。
俺は基礎クラスの控え席の一角で、静かに自分の番を待っていた。周りでは同級生たちが緊張した面持ちで組み合わせ表を食い入るように見つめ、ある者は祈るように目を閉じ、ある者は最後の調整とばかりに杖を握りしめている。なかでも基礎クラスの学生たちの表情は一様に硬い——最初の数試合で負ければ、即座に下位クラスへの降格が決まる。逆に勝ち進めば上級クラスへの飛び級も夢じゃない。この一回の試験が、学院での今後一年間のすべてを左右する。
「——第四試合。基礎クラス、アレク・ヴァンデルト。対するは中級クラス、レオン・ハーグリーヴス。両者、演習場へ」
アナウンスが名前を呼んだ瞬間、控え席全体がざわついた。レオン・ハーグリーヴス——平民出身ながら努力だけでB級まで登りつめ、風属性の速度と精密制御では学年随一と評される実力者だ。貴族の子弟からは「平民のくせに生意気だ」と陰口を叩かれているが、その腕前だけは誰もが一目置いている。
「ヴァンデルトの本当の実力がわかるぞ」「レオンは手強い。特に速度では誰も敵わない」「無属性がどこまで通用するか——いい試金石だ」
貴族子弟たちのそんな声を背に、俺は立ち上がった。制服の襟を正し、深呼吸を一つ。緊張は——なかった。カルドの村で三年間、どんな日でも鍬を振り続けてきた。その積み重ねが、今、確かに俺を支えている。
演習場の中央に立つと、対面にはすでにレオンが待っていた。
想像よりずっと小柄だった。短く刈り込んだ茶色の髪。日に焼けた浅黒い肌。制服の袖から覗く二の腕には、俺と同じような——重労働で培われた筋肉がついている。手にした短杖は使い込まれて柄が手の形にすっかり馴染み、先端に埋め込まれた風属性の魔力石はくすんでいる——安物だからじゃない。使いすぎて、何千回も魔力を循環させてきた証拠だった。
(——この男は、俺とよく似ている)
違うのはただ一点。彼が「見える才能のなさ」を努力で補ってきたのに対し、俺は「見えない才能」に翻弄され続けてきたということだけ。
「——あんたが、ヴァンデルトか」
レオンが口を開いた。声に棘はなかった。
「そうだ」
「俺は平民だ。特別な属性も、貴族の血筋もねえ。でも——三年間、毎日誰よりも早く起きて、誰よりも遅くまで杖を振り続けてきた。そうしてここまで這い上がった。今日は、あんたの『無属性』ってやつ——この目で確かめさせてもらう」
その目に浮かんでいるのは、ただ純粋な闘志だけだった。嘲弄も、嫉妬も、恐怖もない。ただ「相手を倒す」という一点にだけ、すべての意識が集中している。どれだけの努力と覚悟がこの瞬間に凝縮されているか——同じ「這い上がってきた者」として、痛いほどわかった。
(——ならば、敬意を払うべきだ。この男に)
俺は無言で構えを取った。杖は持たない——根源力に杖は不要。それが無属性の特性であり、同時に最大のハンデでもある。
レオンは短杖を正眼に構え、深く息を吸った。風属性の魔力が、杖の先端で緑色に輝き始める。
「——始め!」
審判の腕が振り下ろされた瞬間、レオンの姿が消えた。
いや——消えたように見えただけだ。風を全身に纏った超加速。足音が聞こえるより先に、短杖が俺の側頭部めがけて振り下ろされている。観客席からざわめきが上がった。この速度——中級クラスでもそうそう見られるものじゃない。
だが、俺には見えていた。三年間、朝日と夕日の傾きで畝の影の長さを見極めてきた目が、風に乱れる石畳の微細な埃の動きを捉えている。
(——そこだ)
半歩後退。同時に右手を掲げ、意識を集中する。
「——土」
地面から厚さ一メートルの土壁が隆起し、レオンの短杖を受け止めた。鈍く重い衝突音。土壁に無数の亀裂が走り、粉々に砕け散る。廃石と土煙が演習場に舞い、観客席の前列に座っていた学生たちが腕で顔をかばった。
「——速いな。だけど、まだだ!」
レオンは土煙を突っ切って三歩跳び退り——次の瞬間には、すでに次の魔法を放っていた。風の刃——三発。一呼吸の間に三発の真空刃が、左、右、正面と三方向から同時に襲いかかる。さらに彼はそれだけでは終わらず、即座に四発目を上空から叩き込むように放った。四方向からの同時攻撃——普通なら、どうやってもかわせない。
(——だが。俺は、普通じゃない)
「——水」
無色の光を纏った水の球が、空中に四つ同時に現れた。それぞれが別々の風刃を追尾し——迎撃する。水が風を吸収し、膨張し、爆ぜる。大量の水滴が演習場の石畳に降り注ぎ、朝日を受けて無数の虹が乱舞した。
レオンの顔に——初めて、深い困惑の色が浮かんだ。
「さっきは土。今は水——お前、どうやって。一つの魔力で属性を——」
「まだ続けるか」
「——当然だ!」
彼は歯を食いしばり、短杖を握り直した。ここで彼が見せたのは——驚くべき判断力だった。これまでの戦い方では通用しないと即座に見切り、最後の手段として残していた「全速の突撃」に賭ける。全身から溢れ出る風の魔力が、さっきまでとは比べ物にならない密度で彼を包み込んだ。杖の魔力石が眩く輝き、演習場の砂埃が一斉に舞い上がる。
「——最大戦速!」
レオンの姿が、かき消えた。
観客席が大きくどよめいた。中級クラスの中でも、この速度についていける者は数えるほどしかいない。風そのものと化した彼の体が、直線で俺に向かって突っ込んでくる。もはや肉眼で追うことすら難しい——誰もがそう思った。
だが——俺は、待っていた。この瞬間を。
「——風」
俺の周囲に、無色の光を纏った風の渦が巻き起こる。それはレオンが放った追い風とは真逆の方向——逆回転の気流だ。正面からぶつかり合った二つの風が、互いを相殺し合い、俺とレオンの間に一瞬の「真空」と「静寂」を生み出した。風に乗っていたはずのレオンの加速が完全に殺され、彼の姿が急に浮かび上がる。体のバランスを崩し、足が止まった。
(——今だ)
「——火」
無色の光を帯びた火球が三発、レオンの足元の石畳に向けて正確に放たれた。彼の目前で石畳が焦げ、小さな火柱が上がる。火の粉が舞い散り、彼の靴先をかすめて地面を這った。もし狙いを外していたら——直撃はなかったが、それはわざとだ。意図的に、彼の足を止めるためだけに撃った。彼はそれがわかったのだろう。数秒の硬直の後、短杖の魔力の輝きがゆっくりと消えていった。
「……そこまで!」
審判の宣言が、水を打ったように静まり返った演習場にこだまする。
「勝者——アレク・ヴァンデルト!」
一拍の沈黙。それから観客席から起こったのは——拍手とは言い難い、困惑に満ちたざわめきだった。誰もが言葉を失っている。ついさっきまであれほど騒がしかった貴族子弟の席でさえ、今は誰も口を開けずにいた。
「……なんだよ、それ。ずりぃだろ、お前」
膝をついたレオンが、荒い息の合間に搾り出すように言った。その顔に悔しさはあったが——不思議と笑っていた。
「土だと思ったら水で、水かと思ったら風と火——一つの魔力で属性をコロコロ切り替えやがって。こっちは対応するだけで精一杯だ。ずるいにも程があらぁ」
「……そうかもな」
俺は短く答え、膝をついたレオンに手を差し伸べた。彼は一瞬驚いた顔で俺の手を見て——それから、迷わずその手を取った。
「ありがとよ。なあ——ひとつ聞かせろ。お前、本気、出してないだろ」
「……まあな」
「はっ。だろうな」レオンは立ち上がりながら、小さく笑った。「最後の火、俺を狙ってなかった。全部、わざと足元に外した。そういう——そういう優しさ、嫌いじゃねえぜ」
彼は俺の肩を軽く叩き、短杖を担いで控え席へと戻っていった。その背中には、敗者の悔しさよりも——次の戦いへの闘志が満ちていた。
俺は静かに一礼し、演習場を去った。
控え席へと続く石畳の通路を歩いていると、すれ違う学生たちが一斉に道を開ける。さっきまでは好奇と警戒の混ざった目だった。今は——そこに、紛れもない畏怖の色が加わっている。
(——これが、「無属性」というものだ)
貴族子弟の席からは、まだ不満の声が漏れている。「ずるい」「あんなのチートだ」「一属性しか使えない俺たちが不利すぎる」。しかし教官席に座るベテランたちは——誰もが沈黙していた。彼らは知っている。これは「チート」でも「反則」でもない。火・水・風・土——すべての元素を一つの力で操るなど、魔法学の教科書のどのページにも記述のない現象だ。そしてこの学生は——明らかに、手加減している。それでもなお、圧倒的だった。
通路の先——上級クラスの控え席の入り口に、金髪の長身が腕を組んで立っていた。
ユリウス・クライン。彼は俺が近づいてくるのを、一歩も動かずに待っていた。その顔からは、かつて教室で俺を嘲弄した時の優越感は完全に消え去っている。代わりに浮かんでいるのは——悔しさ。それから、自分でも認めたくない——ほんのかすかな、尊敬の色。
(——お前は、何者なんだ。家柄も才能もなかったはずの男が。なぜ、俺より——)
瞳の奥で渦巻く感情が、そう語っている。彼は何か言おうとして——結局、口を閉じた。今はまだ、言葉にできる段階じゃないのだろう。
俺も何も言わず、彼の横を通り過ぎた。背中に刺さるユリウスの視線を感じながら——だが、足を止める必要はなかった。彼がいつか、自分から言葉を見つける。その時までは——待てばいい。
演習場の出口で振り返ると、次の試合が始まろうとしていた。歓声とどよめきが、再び灰色の空に吸い込まれていく。その喧騒の向こうで、フィオナが観客席から小さく手を振っているのが見えた。
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