18話 無属性の特異性
18話 無属性の特異性
一ヶ月後に中間実力試験が迫っていた。
学院の掲示板に貼り出された正式な試験要項を見上げながら、周りの学生たちが一斉にざわめいた。全学年の全学生が参加する大規模な実戦形式の試験。魔法の実技だけでなく、戦術判断や魔力制御の精度も総合的に評価され、その結果によって次学期のクラス分けが決まる——つまり、この一回の試験が、学院での今後一年間の立場を決定づけるのだ。現在基礎クラスにいる学生も、成績次第では上級クラスへの飛び級が可能で、逆に結果が振るわなければ下位クラスへの降格もある。掲示板の前で顔を青ざめさせる者、闘志を燃やす者——学生たちの緊張が、廊下を歩く空気そのものからひしひしと伝わってきた。
食堂では毎日、試験の話題で持ちきりだった。「ユリウスはAクラス確実だろ」「いや、火属性S級の先輩がいるから優勝は無理かも」「平民のあいつ、最近すごい勢いで練習してるぜ」。そんな会話が飛び交う中で、時折、俺の名前も混ざるようになっていた。
「ヴァンデルトはどう出ると思う」「この前の授業で見せた無属性——あれが本気かどうか」「いや、所詮は基礎クラスだ。上級生の前じゃ通用しねえって」
好奇と期待と、そしてわずかな警戒。それが今の、学院における俺への視線の総体だった。
俺は食堂の隅で麦粥をすすりながら、そんな噂を黙って聞いていた。カルドの村で身につけた習慣で、騒がしい場所でも食事だけはきちんと摂る。腹が減っては戦えない——ガルドの教えだ。噂話に耳を傾けながらも、頭の中は別のことでいっぱいだった。
(——無属性を、どこまで見せるべきか)
それがここ数日、寝ても覚めても俺の頭から離れない問題だった。
全力を出せば——たぶん、誰にも負けない。根源力を思い切り解放すれば、火も水も風も土も——すべてを同時に操り、複合魔法で相手の属性を無力化できるはずだ。学年の枠を超えて、学院全体でも上位に食い込めるだろう。しかし——学院長はあの日、測定室で厳命した。「この件には学院外に一切漏らしてはならない。無属性の現存は、世界の魔法学の常識を覆す。軽々に公表すれば、この若者を狙う者が出る」と。
大舞台で無属性の本質を余すところなく見せてしまえば、その情報はすぐに観客を通じて王都中に——そして、国中の貴族や研究者、果ては他国の権力者たちの耳に入る。俺の力を利用しようとする者、「危険視」して排除しようとする者が必ず現れる。学院長の警告は、大げさではなかった。
逆に——力を隠しすぎればどうなるか。
「やはり才能ゼロは才能ゼロだった」「無属性なんて大したことないじゃないか」。そんな嘲笑が飛び交うだけなら——まだいい。カルドの村で三年間、好奇と陰口に晒されながら畑を耕し続けてきた忍耐がある。だが問題は——今の俺には「無属性の使い手」としての存在意義があることだ。レナード教授が三十年かけて積み上げた研究。フィオナが閉架書庫で託してくれた共同研究と信頼。学院長が下した特例入学の裁定。それらすべてが、俺の実力次第で評価される。ここで中途半端に負けてしまえば——俺一人の評価では済まない。俺を信じてくれたすべての人々の信頼が、根底から揺らぐ。
(——どこまで。どこまで出せば、いいんだ)
答えは、自分ではどうしても出せなかった。全力は危険すぎる。かといって、隠しすぎれば意味がない。その境界線が——どうしても見えなかった。
試験一週間前の深夜——俺は寮をこっそり抜け出して、誰もいない屋外演習場に立っていた。
月が中天に昇り、石畳を青白く染めている。周囲の木々は秋の終わりを告げるように葉を落とし、裸の枝が夜風に揺れていた。誰もいない。学生たちは寮で眠りにつき、教員たちもとっくに帰宅している。この時間の演習場は——世界から切り離された、俺だけの訓練場だった。
(——まずは、体を動かそう。考えるのは、その後だ)
俺は右手を胸の前に掲げた。深呼吸。教授から借りたノートに書かれていた制御法——「根源力を、怒らせず、眠らせず、ただ伴走者のように感じる」——を頭の中で繰り返す。
無色の光が、掌の上に灯った。
「——土」
小さな土球が現れ、透明な光に包まれてゆっくりと回転する。カルドの畑で初めて土を触った朝と同じ——指先に伝わる温もり。この感覚を忘れなければ、力は暴走しない。
「——火」
土球が消え、火の粉が宙を踊る。秋の冷たい空気の中で、透明な炎だけが確かな熱を放っている。
「——水」「——風」
水滴が渦を巻き、風が石畳の埃を巻き上げる。一つひとつ、丁寧に形を整え、消しては作り、作っては消す。基礎の反復。カルドの村で毎朝同じ畝に鍬を振るい続けたように——ここでも、同じことを果てしなく繰り返す。
(——それでいい。基礎がすべてだ。基礎を制すれば、応用は後からついてくる)
何時間そうしていただろうか。気がつくと、学院の時計塔が丑三つ時の鐘を鳴らしていた。制服は汗でぐっしょりと背中に張り付き、額から滴る汗が石畳に染みを作っている。指先は熱を持ってひりつき——これ以上は危険だと、自分の限界が知らせている。
俺は両膝に手をついて、荒い息を整えた。
「……どこまで、出せばいいのか」
声が、自分のものとは思えないほど掠れていた。
「誰か——教えてくれ」
その言葉は、誰に届くはずもなかった。深夜の演習場に、俺一人。月だけが聞いている。
——そう思っていた。
演習場の入り口の方から、かすかな衣擦れの音がした。
息を呑んで振り返る。石段の一番上の段に——銀色の髪が、月明かりを反射して絹のように輝いている。いつの間に。まったく気配を感じさせず——いつものように、まるで最初からそこにいたかのように——フィオナが立っていた。夜風が長い髪をふわりと揺らし、菫色の瞳が、暗がりの中で静かに俺を見つめている。
「……フィオナ。いつから」
「さっき。図書館の二階の窓から——あなたが演習場に向かうのが、見えたから」
俺は思わず苦笑した。閉架書庫の窓は目張りされているが、一般閲覧室の窓なら夜でも演習場が見渡せる。彼女は閉架書庫ではなく、二階の窓辺で本を読んでいたのだろう。そして——俺が一人で出ていくのを見て、追いかけてきた。まったく——この人は、いつの間にか俺の行動パターンを完璧に把握しているらしい。
「ずっと、見てたのか」
「少しだけ」
彼女は石段をゆっくりと降りて、演習場の端に立った。訓練用の石畳の上には、俺が消し損ねた無色の魔力の残滓が、まるで星の破片のように月明かりを浴びてきらめいている。
「——試験で、どこまで見せるか。迷ってるんでしょ」
「……わかるか」
「顔に書いてある。それに」彼女は一呼吸おいて、「ここ数日、食堂でも教室でも、ずっと難しい顔してた。図書館でも本が手につかないみたいだったし。みんな気づいてる。あなたが何か悩んでるって」
俺は何も言えなかった。周りの学生たちは、俺の「無属性」という外側だけを見ていると思っていた。でも——フィオナだけは違った。彼女は最初から、俺自身を、俺の内面を見ていたのだ。閉架書庫での共同研究が始まってからというもの、彼女は俺のどんな小さな変化も見逃さなかった。
フィオナは演習場の石畳に残る魔力の残滓をじっと見つめてから、静かに口を開いた。
「——あなたが思ってる。その半分で。十分だと思う」
「……半分?」
「うん」彼女はうなずいた。月明かりを浴びた銀髪が、さらさらと肩を滑る。「全力の半分でも——誰も、敵わないから。試験の目的は、『誰が一番強いか』じゃない。『自分の力をちゃんと証明できるか』——あなたなら、半分で十分に証明できる」
彼女の声には一片の迷いもなかった。閉架書庫で何十冊もの文献を読み漁り、誰よりも無属性の理論を深く理解している彼女だからこそ言える——揺るぎない確信だった。
「……半分」
俺は自分の手のひらを見下ろした。全力の半分——それでも、火・水・風・土のすべてを操り、単一属性しか持たない通常の魔法使いでは対抗できないレベルだ。場合によっては、それでもまだ「見せすぎ」かもしれない。
(——半分。いや——もっと抑えよう)
三割。全力の三割なら——複合魔法は封印し、単一属性の切り替えだけを見せる。無色の光はどうしても出てしまうが、その本質までは明かさない。それで十分に、基礎クラスから上級クラスへの飛び級は狙えるし、「無属性は本物だ」という証明にもなる。何より——学院長の命令にも反しない。
「——三割、だな」
「三割?」フィオナがわずかに首をかしげた。
「ああ。半分でもまだ多い。三割——それだけで十分だ。複合魔法は使わない。単一属性の切り替えだけで戦う」
彼女は少しだけ驚いた顔をして、それから——ふっと、口元を緩めた。今ではもう、それがフィオナの最大級の「笑顔」だと理解できる。
「……それなら、余裕で勝てる。絶対に」
彼女はそれだけ言うと、くるりと背を向けて寮の方へ歩き出した。数歩進んでから、立ち止まって——振り返らずに言った。
「——あと、試験の前日はちゃんと寝て。寝不足だと、魔力の制御が甘くなるから」
「……お前、そういうのまで知ってるのか」
「調べたから」
それだけ言い残して、フィオナは月明かりの中に消えていった。銀色の髪だけが、しばらく闇の中で揺れて輝き、やがて見えなくなった。
俺は一人、演習場に残された。さっきまで汗と疲労でぼんやりと霞んでいた頭が——今は、驚くほどクリアに冴え渡っている。
(——三割。それで十分だ)
それ以上は、まだ見せる時じゃない。無属性の本質を世界に知らしめるのは——もっと先のことだ。まずはこの学院の中で、自分の立ち位置を固める。自分の力を、正しく証明する。そのために必要な分だけを、正確に——見せる。
俺は汗を拭い、寮への道を歩き始めた。月はすでに西の空へ大きく傾き、丑三つ時を過ぎた深い静寂が学院全体を包み込んでいる。カルドの村で、何度も夜明け前に畑に出て、星明かりだけで畝を整えた日々——あの時と同じように、今はただ、やるべきことをやるだけだ。
(——ガルドさん。見ててくれ)
ポケットの中で、魔石がかすかに鼓動を打った。
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