17話 初めての授業

才能ゼロで追放された三男、実は最強の無属性でした2026-06-01 16:20:31

17話 初めての授業

教授から無属性の理論と危険性を学んでから、俺は放課後の時間のほとんどすべてを閉架書庫で過ごすようになった。
無属性を制御するには——理論の理解が不可欠だ。そして理論の根拠になるのは、教授の仮説だけではなく、千年前に実際に無属性を扱っていた者たちが遺した「一次資料」。俺は授業が終わるとすぐに図書館へ向かい、司書に許可証を見せて地下への階段を降りるのが日課になった。司書の老人も、今では俺の顔を見るなり無言で鍵を差し出す。
閉架書庫の空気は、何度来ても変わらない。古い紙と革と——かすかに黴の混ざった、独特の重たい匂い。目張りされた窓からは陽の光が一切入らず、壁際に等間隔で設置されたランタンだけが、細い通路をぼんやりと橙色に照らしている。時折、ランプの油がはじける微かな音と、自分がページをめくる衣擦れの音以外には何も聞こえない。まるで——時間そのものが、この地下空間だけは千年前から止まったままかのようだった。
書架に並ぶ文献のほとんどは古代文字で書かれている。現代の魔法学では「死語」とされる文字体系で、学院でも読める教員は片手で数えるほどしかいない。幸い、レナード教授が三十年かけて作成した翻訳対照表——手書きの擦り切れたノート——があったおかげで、俺は一ページずつ、辞書を引くように解読を進めることができた。最初のうちは一ページに一時間近くかかったが、三日ほど経つと目が慣れてきて、ある程度は自力で読めるようになった。古代文字には独特の文法があったが、不思議と——自分の力で理解できる感覚があった。根源力が、千年の時を超えた「仲間」の言葉を認識しているかのように。
そして——千年前の真実が、断片的に浮かび上がってきた。
千年前。この世界には、確かに無属性の使い手たちが存在した。彼らは「根源の魔導師」と呼ばれ、四大元素すべてを自在に操る絶対的な力を有していた。記録によれば、彼らは一国の軍隊に匹敵する戦力でありながら——戦うためではなく、守るためにその力を使った。国土を災害から護り、病んだ大地を癒やし、枯れた水源を蘇らせた。人々は彼らを「世界の調律者」と呼び、深く敬愛していた——最初は。
しかし、力があまりにも強大すぎた。
文献の随所に、それを示唆する記述が挟まれている。「魔導師の一振りで山が動いた」「彼の怒りに触れた川が沸騰した」「ただ静かに座っているだけで、周囲の草木が異常な速度で成長した」——最後の記述に、俺は既視感を覚えた。カルドの村で感情が暴走した時、まったく同じ現象が起きた。無属性の力は感情と直結している。千年前の魔導師たちもまた——同じ苦しみを抱えていたのだ。
力を持つ者と持たざる者の溝は、徐々に深まっていった。人々は魔導師を敬いながらも、その内側では恐怖を抱くようになった。やがて「無属性は危険だ」「世界の均衡を脅かす」という声が大きくなり——魔導師たちは一人、また一人と追い詰められ、「封印」されていった。封印が具体的に何を意味するのかは、記録が途中で途切れているため正確にはわからない。ただ——その後、彼らの消息はぷっつりと絶えていた。
(——俺と同じだ。力を持っているというだけで。恐れられ、排除された。千年前も——そして三年前も)
何も変わっていない。時代が変わっても、力を持つ者への恐怖と排斥——その理不尽だけは、千年の時を超えて連綿と続いている。
そう思ってページをめくっていた時——ある一節が、他のどの記述とも違う筆致で書かれているのに気づいた。
丁寧で、繊細で、それでいて震えを帯びた文字。書き手の感情が、千年の時を超えてありありと伝わってくるような——そんな文章だった。他の文献はすべて三人称の報告書のような形式なのに、これだけは一人称だった。最後の無属性使いが、自分自身のために——あるいは未来の誰かのために——遺した、遺言のような記録。
『我が力は我が子に継がれぬ。我が血は、この根源を受け継ぐに足る器を持たぬゆえに。我が子らはただの人間として——平凡に、しかし幸せに生きることを、我は願う。されど——我は知っている。力は決して消えぬ。大地の記憶として、この世界の底に残り続ける。空気に溶け、水に混ざり、火の粉に宿り、土の奥で眠り——いつの日か、大地が再び応える者を選ぶであろう。その者の手で、根源は目覚め——新たな世界を創るであろう。それがいつになるかはわからぬ。百年か、千年か——あるいは、もっとか。されど我は信じている。いつの日か——必ず』
(——大地の記憶)
筆を置く手の震えが、文字の震えとして千年の時を超えて伝わってくる。これはただの記録じゃない。千年前の無属性使いから、未来の「後継者」への——つまり、俺への——手紙だった。
「我が子に継がれぬ」。無属性は血筋では継承されない。それは教授の理論とも一致する。無属性は「生まれつき」の個人属性ではなく——大地そのものが「選ぶ」ものなのだ。ならばなぜ俺が選ばれたのか。それはわからない。だが、少なくとも——「才能ゼロ」が誤りだったというだけではない。俺は、千年の時を超えて受け継がれるべきものを「託された」のだ。
この記録を書き終えた最後の無属性使いがどうなったのか——記述はここで終わっている。ただ最後のページの隅に、震える文字で小さく書き添えられた一言だけが残っていた。「寂しくは、ない」。
(——寂しくは、ない、か)
千年の孤独を、そう言い聞かせて封じたのか。それとも——未来の俺に、そう伝えたかったのか。
ランタンの灯りが、かすかに揺れた。
顔を上げる。隣の書架の陰から、音もなく人影が現れるところだった。銀色の長い髪が、暗闇の中でぼんやりと輝いている。学院の制服に三年の学年章。菫色の大きな瞳が、静かに——吸い込まれるような深さで——俺を見つめていた。
いつからそこにいたのか。まったく気配を感じなかった。まるで彼女自身が、この書庫の一部であるかのように自然に溶け込んでいる。フィオナ・ラズウェル。侯爵家の長女にして、閉架書庫の主。
彼女は俺が広げている文献のタイトルをちらりと見て——『根源魔導師の記録 第十一巻』——それから、何も言わずに隣の書架へ歩いていった。細く白い指が迷いなく背表紙をなぞり、迷わず一冊を抜き取る。表紙には古代文字で『無詠唱魔法の理論と実践——古代無属性使いの記録より』と刻まれている。俺がさっき読んだ「最後の記録」のすぐ隣に置かれていた本だ。
フィオナはその本を机の上に置いて、自分の研究ノートから一枚の栞を抜き取り、ページの間に挟んだ。
「……無属性の使い手は——詠唱を必要としなかった」
彼女は自分の本に視線を落としたまま、淡々と説明を始めた。声は相変わらず静かで、それでいてはっきりと芯の通った響きを持っている。
「根源力は——分化する前の力。火よ、水よ——という言葉で『命令』を与える前に、意志そのものが直接、力に作用する。これが普通の魔法との最大の違い。そして——最大の利点でもあり、最大のリスクでもある」
「……リスク」
「言葉は——制御のための『枷』でもある。火よ、と唱えることで、火の範囲や温度を限定できる。でも、言葉を使わなければ——制御はすべて、意志だけに委ねられる。意志が揺らげば、力も揺らぐ。感情が乱れれば——暴走する」
俺はフィオナの言葉に、息を呑んだ。カルドの村で起きた感情暴走——あれは、この「無詠唱」の性質が原因だったのだ。言葉という「枷」を持たないからこそ、無意識の感情がそのまま力に変換されてしまう。制御の鍵が「平静」である理由が、理論的に説明された瞬間だった。
「……よく、そこまで知ってるな」
「調べたから」
短い答えだったが、その奥には膨大な時間が詰まっている。彼女も——きっとずっと前から、一人でこの書庫に通って、誰にも言えない「自分だけの秘密」を調べ続けてきたのだろう。根源水——無属性の姉妹とも言える彼女の力。その正体を知りたくて。
「——なぜ、手伝うんだ。フィオナ」
俺は彼女の顔をまっすぐに見て尋ねた。
彼女は少しだけ沈黙してから、菫色の瞳を上げた。
「秘密を暴くのは——一人より、二人のほうが効率的だから」
「……それだけか」
「それだけ」
でも——その声には、さっきまでになかった微かな柔らかさが混ざっていた。嘘をついているようには見えないが、すべてを語っているわけでもない。彼女なりの「理由」が、きっとどこかにあるのだろう。
「——協力、してくれるのか」
「最初から、そのつもりよ」
彼女はそう言って、机の上に自分の研究ノートを置いた。ページを開くと、細かな文字で古代文字の解読メモ、魔法陣の解析図、文献の引用と考察がびっしりと書き込まれている。内容は明らかに——無属性とその関連魔法に関するものばかりだった。彼女は最初から、俺よりもずっと深く、この研究に没頭していたのだ。
「これは——お前が一人で」
「……誰にも見せるつもりは、なかった。でも」
彼女は一瞬だけ口ごもり、それから小さく息を吐いた。
「あなたがここに来るのを見て——一人じゃないんだって、思った」
(——ああ。この人も、ずっと一人だったんだ)
俺と同じだ。自分だけの秘密を抱えて、誰にも打ち明けられず、それでも知りたいことを諦めきれず——この暗い地下書庫で、たった一人で闘ってきた。
「ありがとう。フィオナ」
俺は心からの言葉を、できるだけまっすぐに伝えた。
フィオナは——ほんの少しだけ、口元を緩めた。それが、俺が見た初めての彼女の笑顔だった。
これが——閉架書庫の奥深く、千年の文献に囲まれた静かな空間で始まった、俺たち二人だけの秘密の共同研究の、最初の日だった。
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