16話 好奇と疑念

才能ゼロで追放された三男、実は最強の無属性でした2026-06-01 16:20:26

16話 好奇と疑念

実戦授業から数日後、レナード教授から深夜の特別講義に呼ばれた。
「他の学生が寝静まった頃に来なさい。誰にも見られては困る内容じゃ」
教授の手紙にはそう書かれていた。ただならぬ真剣さが、几帳面な文字から伝わってくる。俺は日付が変わる少し前、寮の自室を抜け出した。廊下の燭台はすべて消され、窓から差し込む月明かりだけが石畳を青白く照らしている。誰もいない廊下を歩く自分の足音だけが、やけに大きく響いた。
教授の研究室の扉を叩くと、すぐに「入れ」という声が返ってきた。
部屋の中は——日中とは打って変わって整然としていた。床に散乱していた文献はきちんと積み上げられ、壁の地図や年表は整理され、机の上には一枚の大きな羊皮紙が広げられている。何より——いつも机の上を占拠していた飲みかけのコーヒーカップが、今日は一つもない。教授がこの講義のために、わざわざ片づけたのだ。
「——座りなさい」
俺は机の前の椅子に腰掛けた。羊皮紙の上には、教授自身の手で描かれた複雑な図表が広がっている。四大元素を表す四つの大きな円——それぞれに火、水、風、土の古代文字が刻まれ——が、中央の小さな一点から放射状に広がっている。それぞれの円の間には細い線が無数に引かれ、複雑な幾何学模様を形成していた。
「これは、わしが三十年かけて構築してきた『無属性の理論モデル』じゃ」
教授は羊皮紙の中央——四つの円が交わる一点——を、節くれだった指でそっと押さえた。丸眼鏡の奥の目が、ランタンの灯りを反射してぎらりと光る。この老人の目がこれほど真剣だったのを、俺は初めて見た。
「まずは基礎から——魔法学の常識を確認しておこう。世の中の魔法使いは、生まれつき火・水・風・土のいずれかの属性を持つ。魔力は体内で生成され、その属性に応じた形で外界に放出される。火属性の者は火魔法しか使えず、水属性の者は水魔法しか使えない——これが、この世界の『常識』じゃ」
教授は四つの円の外側を指でなぞった。
「じゃが——わしは三十年間、ずっと疑問に思ってきた。なぜ四大元素は、最初から四つに分かれているのか。もし——分かれる前に、すべての元素を内包した『根源の力』が存在したとしたら」
指が、円の中心へと戻る。
「そして、君が現れた。君という存在が——わしの三十年の仮説に、決定的な証明を与えてくれた」
教授は羊皮紙を机に広げたまま、ゆっくりと背筋を伸ばした。それから、まるで講義をするかのような——しかし普段の教室よりずっと静かで、ずっと熱のこもった声で語り始めた。
「——無属性の理論的核心は、こうじゃ。火も水も風も土も——すべての元素は、元を辿ればただ一つの『根源力』に収束する。それは四大元素のいずれでもなく、それらすべてを内包した、未分化の原初状態。これこそが、この世界が誕生した時に存在した『最初の力』——そして今、君の体の中にだけ、その力が未分化のまま保存されている」
(——世界が誕生した時の、最初の力)
全身の毛が逆立つような感覚だった。俺が三年間、畑で土を触り、納屋で石を育てながら感じていた「温もり」——あれは、単なる魔力の発露ではなかった。この世界そのものの「起源」に触れていたのだ。
「つまり——君は、理論上あらゆる属性魔法を、ただ一つの根源力で再現できる。これは君が実戦授業で実証した通りじゃ。じゃが——それだけではない」
教授は四つの円の間を結ぶ細い線を、指でなぞった。
「通常の魔法使いは一つの属性しか持たない。ゆえに、魔法と魔法を『組み合わせる』ことはできない。火と水を同時に操るなど——理論上、絶対に不可能とされてきた。じゃが、君は違う。君の無属性は、すべての元素の根源——ならば、複数の属性を同時に発動させる『複合魔法』も、君にだけは可能なはずじゃ」
「……複合、魔法」
「例えば——火と風を融合させた『炎嵐』。水と土を組み合わせた『泥流』。四大元素すべてを同時に起動する『原初の渦』——これらは、これまでの魔法学では『机上の空想』でしかなかった。じゃが——君なら」
教授の声に、ほとんど祈りに近い響きが混ざった。三十年間、誰にも信じてもらえなかった理論が——今、実証されようとしている。
だが——教授の表情は、次の瞬間には厳しさに変わった。
「——しかし、じゃ。この力には、凄まじい危険が伴う」
ランタンの灯りが風もないのに揺れ、教授の顔に深い影が落ちた。部屋の空気が、急に重くなる。
「君の無属性は、莫大なエネルギーが凝縮された——いわば『超臨界状態』にあると言える。分化する前の根源力は、安定した属性魔法と違って、非常に不安定じゃ。制御を誤れば——力を発動させた君自身が、そのエネルギーに飲み込まれる」
「……飲み込まれる」
「うむ。最悪の場合——君の肉体と精神が、制御を失った根源力の渦に分解される。自己消失。これが、無属性の最大のリスクじゃ。千年前の無属性使いたちが次々と封印されたのも——その危険性を恐れたからに他ならない」
教授は机の引き出しから古びた研究ノートを取り出した。ページを開くと、そこにはびっしりと書き込まれた古代文字の解読記録と、手描きの人体図が並んでいる。
「千年前の文献には——無属性に飲まれた使い手の記録が残っている。『根源を操る者は、いつか根源に還る』と。要するに、制御の臨界点を超えた無属性使いは——跡形もなく消滅した。これが事実なら——君の力は常に、君自身をも脅かす『諸刃の剣』なのじゃ」
俺は両手を見つめた。タコに覆われた掌の奥で——今は静かに眠っている根源力。この力が、もし暴走したら。自分だけでなく、周囲のすべてを巻き込むかもしれない。
(——カルドの村で感じた、あの感覚)
鉱石を成長させている時、時々感じていた「境界が溶ける」ような感覚。手のひらが熱くなりすぎて、自分の力が石に流れ込む——と同時に、石の何かが逆流して自分の中に入ってくる。まるで自分と石の境界が曖昧になっていくような、あの瞬間。
教授は俺の顔をじっと見ていた。
「……心当たりがあるようじゃな」
俺は小さく頷き、カルドの村での経験を話した。鉱石を相手に実験している時の熱感。連続使用後の疲労と火傷のような痛み。感情が高ぶった時に作物が暴走したこと。制御の鍵は「平静」だが、それだけでは明らかに足りなかったこと。
教授は黙って聞き、俺の話が終わると深く——何かを確信したように——頷いた。
「君の言う『平静』は、確かに制御の重要な要素じゃ。感情が力に直接影響するというのも、無属性の特徴として文献に記録が残っている。じゃが——それだけでは足りない。君に必要なのは、経験則だけではない——理論の裏付けじゃ」
教授は立ち上がり、部屋の奥の本棚から分厚いノートの束を取り出した。擦り切れた皮表紙に、手書きの「無属性制御理論・未定稿」という文字。三十年分の研究の集大成が、そこにぎっしりと詰まっている。
「これは、わしが三十年かけてまとめた——無属性の制御理論と安全基準じゃ。まだ未完成で、実例による検証はこれからじゃが——今の君には、これだけが頼りじゃ。読みなさい。隅から隅まで。わからないことがあれば——昼夜を問わず聞きに来い」
俺は差し出されたノートを、両手で受け取った。紙の重みが想像以上にずっしりと腕にかかる。三十年にわたる孤独な研究の重みが、この厚さの中に凝縮されている。この老人は——三十年間、実例もなく、理解者もなく、嘲笑に耐えながら、ただ一人でこの理論を積み上げてきたのだ。
「……教授。なぜ——そこまで」
「なぜ——三十年も、一人で」
教授は少しだけ目を伏せ、それから、かすかに笑った。
「わしは若い頃——魔法学院で最も有望な研究者の一人だった。だが『無属性の研究』を始めた途端、学会からは追放され、同僚からは嘲笑われた。わしの理論を信じてくれた者は——一人もおらなんだ。それでも、やめられなかった。なぜか——わしにも、ようわからん。ただ」
教授は顔を上げ、まっすぐに俺を見た。
「わしは——魔法の真実を知りたかった。教科書に書いてあることの、その先を。誰も見たことのない景色を——この目で確かめたかった。それが、わしの人生のすべてじゃ」
「……その景色を。見せたくて」
「——見せたい。君に見せたい。君と一緒に見たいんじゃ」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
俺はノートを胸に抱え、教授に深く頭を下げた。
「約束します。この力を——必ず制御してみせます。ちゃんと——理解して」
教授は何も言わず、ただ小さく頷いた。丸眼鏡の奥の目が、ランタンの灯りに潤んでいるように見えたのは——気のせいではないと思う。
研究室を出ると、廊下は相変わらず闇に包まれていた。月が雲に隠れて、昼間の学院の喧騒がまるで遠い昔のように感じられる。
俺はノートを抱え、寮への道を歩きながら——ふと立ち止まった。窓の外に見えるのは、寝静まった学院の中庭と、その向こうに広がる王都の街並み。ここには何千もの人々が暮らしている。もし——俺の力が今、暴走したら。この街全体が。
(——この力を制御できなければ。俺は——ただの、危険物だ)
そう思うと、背筋が凍った。三年間、俺はこの力を「便利な道具」のように使ってきた。でも——それは間違いだった。これは「力」ですらない。自分自身の一部でありながら、自分自身を超えた「何か」——それを、これから制御しなければならない。
ノートの重みが、腕の中で確かに応えた。まずは——ここからだ。理論を理解し、危険を知り、一歩ずつ制御への道を歩む。
月が雲間から顔を出し、廊下に青白い光が差し込んだ。俺はノートを抱え直し、自室への歩みを再開した——明かりを灯して、一晩中でも読み耽るつもりで。
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