10話 三年の重み

才能ゼロで追放された三男、実は最強の無属性でした2026-06-01 16:19:43

10話 三年の重み

カルドの村を出てから、五日が経った。
一人で歩く街道は、三年前とは何もかもが違って感じられた。あの時は雨に打たれ、寒さに震え、三日分の銅貨だけを握りしめて——死に場所を探すような気持ちで歩いていた。足はもつれ、服は泥にまみれ、通りすがりの誰もが俺を見て眉をひそめた。当然だ。十二歳の子供が、夜の街道を一人で泣きながら歩いているのだ。不審に思われて当然だった。
今は——違う。背筋を伸ばして、自分の足で、自分の意志で歩いている。一歩一歩が、土を踏みしめる実感がある。農作業で培った歩き方——腰を落として、足の裏全体で地面を捉える。疲れない歩き方だ。
体そのものも、まるで別人だった。十五歳になった俺の肩幅は三年分広がり、二の腕には鍬を一日中振り続けて培った筋肉がついている。腹筋も、重い石を運び、堆肥の入った桶を担いだ日々の積み重ねで引き締まっていた。手のひらは分厚く硬いタコに覆われ、指の関節は太く、爪の間には土の色が染み込んでいる。一日に三十キロ歩いても、かつてのように足が棒になることはない。夜になれば街道脇の草地に寝転がり、星空の下で眠り、夜明け前に起きてまた歩き出す。
道行く人々は俺を見ても、もはや「痩せこけた貴族の坊ちゃん」とは思わないだろう。日に焼けた浅黒い顔、つぎはぎだらけの麻の服、肩に担いだ古い革袋——どう見ても、辺境の農村から出てきた若い農夫だった。
(三年前の俺が、今の俺を見たら——)
井戸に映った自分の顔を思い浮かべる。碧い瞳だけはあの頃のままだが、それ以外のすべてが変わった。もしも今、ヴァンデルト家の誰かとすれ違ったとして——果たして気づくだろうか。いや、気づくはずがない。彼らの記憶の中の俺は、白く細い手をした十二歳の少年のままだ。
山間の風景がだんだんと開けていくにつれて、畑は大きくなり、村は町に変わり、馬車や人の行き来も増えていった。王都に近づいている証拠だった。空気も、カルドの村とは違う。澄んだ山の空気の中に、かすかに煙と埃と——人いきれの匂いが混ざり始めている。
四日目の昼過ぎ、街道沿いの小さな茶店で休憩を取ることにした。ここまで来ると、店のつくりもカルドの掘っ立て小屋とは比べ物にならない。木造二階建てのきちんとした建物で、馬を繋ぐ厩舎まで備わっている。
麦茶を一杯だけ頼んで、隅の席で足を伸ばしていると、隣の席に座っていた旅の商人が、暇つぶしのように話しかけてきた。
「あんた、王都まで行くのかい」
六十がらみの、恰幅のいい商人だった。頭はだいぶ薄くなり、腹のあたりには豊かな贅肉が乗っている。身なりは立派だが、気さくな話し方をする男だった。馬車には麻袋や木箱が山のように積まれていて、布や香辛料や——王都では手に入らない辺境の特産品を買い集めてきたらしい。
「ええ、魔法学院の特別試験を受けるつもりで」
俺がそう答えると、商人は目を丸くした。
「ほう——そいつは志が高いな。魔法学院たぁ、貴族の子息が行くところだと思ってたが。あんたみたいな若者が、わざわざ辺境から出てくるとは」
「……いろいろ、事情がありまして」
「まあ、野暮は聞かねえよ。若い者が夢を追うのはいいことだ」
商人は自分の茶をずずっとすすりながら、ぽつりぽつりと王都の近況を話し始めた。市場の景気がいいこと、王宮で新しい大臣が任命されたこと、今年の秋の収穫祭が例年以上に盛大だったこと——たいした関心もなく聞き流していた。
「——で、貴族連中は相変わらずだ。特にヴァンデルト伯爵家は、ここ数年で一段と羽振りが良くなってな」
茶碗を口に運びかけた手が——止まった。
(——ヴァンデルト)
口の中が、かすかに乾く。三年間、一度も聞かなかった名前だった。カルドの村では誰もそんな名を知らず、知っていたとしても口にする者はいなかった。でも——ここはもう王都に近い。あの家の名は、普通に話題に上るのだ。
商人は俺の異変にまったく気づかず、続けた。
「新しい鉱山を掘り当てたらしくてな。それも良質の魔石がざくざく採れるんだと。おかげで伯爵の評判はうなぎ登り——まあ、元々やり手の当主だったからな、ギルバート伯爵は」
ギルバート伯爵。父の名だった。商人が当たり前のように口にする——おそらく敬意すら込めている——その名を、俺は三年ぶりに聞いた。耳の奥で、かすかにあの声が蘇る。「お前はヴァンデルト家の恥だ」。
「それから、長男のマクシミリアン様だっけか。先月、ラングレー伯爵家の令嬢と婚約が決まったっていうじゃないか。火属性のA級同士——王家も太鼓判を押す、お似合いの組み合わせだって社交界でも評判らしい。来年の春には結婚式だそうだ」
マクシミリアン兄上が——婚約。鑑定の儀の壇上で、俺の「ゼロ」という数値に口元を歪めたあの兄が、今は伯爵家の令嬢と婚約し、社交界で「お似合い」と評判を取っている。来春には結婚。ヴァンデルト家の後継者として、着実に階段を上っているのだろう。
俺は手のひらを広げて、じっと見つめた。分厚いタコ。泥の染み込んだ爪。この手が、かつて同じ食卓でパンをちぎっていた兄の手だったとは、もはや誰も信じないだろう。マクシミリアン兄上も——覚えているだろうか。三年前、才能ゼロの弟がいたことを。
(——なんの感情も、湧かないな)
それが、いちばん意外だった。怒りも、悔しさも、羨望も——何も感じなかった。ただ遠くの噂話を聞くように、「そうか」と思っただけだ。三年前の俺なら、父の成功や兄の婚約を聞いて、やりきれない思いに駆られたかもしれない。でも今は——あの人たちの世界と、俺の世界は、まったく別の場所にある。
三年の間に、その二つは完全に分かたれてしまったのだ。
「……次男は」
気がつくと、口が勝手に動いていた。
「次男の——エドガー様は、どうしてるか知ってますか」
商人は少し首をかしげて、記憶を探るように天井を見上げた。それから、思い出したように手を打った。
「ああ、次男の方は——あまり噂を聞かんなあ。確か、領地の農業改革か何かを手掛けてるって話は聞いたことがあるが……社交界にはほとんど顔を出さんらしい。長男に比べると、ずいぶん地味だって評判だ。ああ、でも——」
商人は茶を一口すすってから、声を少し潜めた。
「先日、とある商人仲間から聞いたんだが——エドガー様は時々、領地の端にある小さな村に一人で視察に行くことがあるらしい。わざわざ馬車も使わず、歩いて。村人から『変わった若様だ』って評判だそうだ」
——小さな村。一人で。馬車も使わず。
(何を、しているんだろうな。今さら)
考えるのはやめようと思った。だが——商人の話にあった「農業改革」という言葉が、妙に頭に引っかかった。エドガー兄上は昔から、家の書庫にある領地経営の本をよく読んでいた。父やマクシミリアン兄上が魔法や武術の鍛錬に明け暮れる中で、たった一人、地図を広げて土壌の分布図を眺めていたのを覚えている。
(あの人は——後悔、しているんだろうか)
三年前の沈黙を。口を開きかけて、閉じて、目を逸らしたあの瞬間を。
俺は無意識に、膝の上で拳を握りしめていた。
父ははっきりと「恥だ」と言った。マクシミリアン兄上は口元を歪めて嘲笑った。彼らの行動は——残酷ではあったが、明確だった。否定するなら否定する。切り捨てるなら切り捨てる。そこには、一本の筋が通っている。
でも——エドガー兄上は違った。
否定もせず、肯定もせず、かばいもせず——ただ、沈黙した。「何もしなかった」。それが、三年経った今でも、俺の胸のどこかに棘のように刺さっている。
(怒りじゃない。悲しみでもない。——これは、たぶん)
自分でも、うまく言葉にできなかった。父とマクシミリアン兄上に対する感情は、どこかで整理がついている。冷たく乾いた諦観——もう関わらなくていいという安堵にも近い。でも、エドガー兄上に対してだけは——そう簡単に割り切れなかった。
あの人が、もしあの時「待て」の一言でも言ってくれていたら。あるいは——父のいないところで、こっそりとでも「すまない」と言ってくれていたら。何かが、少しは違っていたのかもしれない。
(いや——違わなかっただろうな。結局、追放されたことに変わりはない)
答えは出なかった。三年かけても、まだ整理のつかない感情が、確かにここにあった。
「まあ、ヴァンデルト家は今が全盛だろうな」商人はまとめるように言った。「伯爵の才覚に、長男の才能——次男はともかくとして。このままいけば、十年後には侯爵位も夢じゃないって噂だ。ま、俺たちには関係ない話だがね」
「……そうですね」
俺は残りの麦茶を飲み干し、席を立った。商人が「もう行くのかい。王都までまだ半日はあるぞ」と声をかけてきたが、軽く手を挙げて応えるだけにした。
(——全盛、か)
皮肉なものだと思った。才能ゼロの三男を切り捨てた家が、そのおかげでますます栄えている。当然と言えば当然だ。家名に傷をつける者は排除し、秀でた者だけで家を固める——それが貴族の存続戦略だ。三年前の俺は、その論理の犠牲者だった。今の俺は、その論理の外側に立っている。
恨んでいるわけじゃない。もう。
それは本心だった。怒りも復讐心も、ほとんど消え去っている。三年の歳月と、土と鍬と、ガルドの麦粥が——あの雨の夜の痛みを、ゆっくりと洗い流してくれた。父を憎み、兄を呪う——そんなことに費やす気力は、もう残っていなかった。
でも。
(——証明したい。俺には、ちゃんと価値があるってことを)
それは父に対してでも、兄たちに対してでもなかった。自分自身に対して——だった。「才能ゼロ」という烙印を、三年前に押された。その烙印のせいで、自分の存在すべてが否定されたように感じた。その傷が——まだ完全には癒えていない。癒すためには、あの烙印を自分の手で剥がさなければならない。学院で、もっと大きな舞台で——改めて。
そう思っている自分に気づいて、少しだけ驚いた。もう十分に立ち直ったと思っていたのに、まだこんなことを考えているのか。
(——たぶん、これが。俺の「やり残したこと」なんだ)
三年前に置き去りにした、唯一の未練。それを取り戻しに——今、王都へ向かっている。
五日目の夕暮れだった。
街道が大きくカーブを曲がり、最後の丘を一つ越えたところで——視界が、ぱっと開けた。
眼下に広がる、巨大な城壁。無数の家々の赤い屋根が、遠くまでどこまでも続いている。街の中心には王宮の白亜の尖塔が、茜色に染まった空に向かってまっすぐに伸びていた。城壁の門からは、商人の馬車や旅人の群れが、蟻のように出入りしている。
王都。
三年ぶりに見る、生まれ故郷だった。
立ち止まって、しばらくその光景を眺めた。美しい街だ——改めてそう思った。十二年間この街で暮らしていたのに、かつて一度も「美しい」と思ったことはなかった。でも今は違う。外の世界を知ったからこそ、この街の大きさと豊かさと——その中にある冷たさのすべてが、客観的に見える。
(——ここに、帰ってきたのか)
いや、違う。この街に「帰ってきた」わけじゃない。初めて——ここに「来た」のだ。
三年前の俺は、ここで生まれ、ここで育ったが、決してここで「生きて」はいなかった。家名の重みに縛られ、他人の評価に怯え、誰かの期待という枠の中でだけ存在していた。それは「生きている」とは呼べない——ただ、呼吸をしていただけだ。
今の俺は、違う。ここには、俺の畑はない。ガルドの麦粥もない。でも——俺自身が、ちゃんとここに立っている。鍬を握り、土を耕し、石を魔石に変えてきた、この両手と共に。
革袋の口を開けて、中から魔石を取り出した。ガルドが返してくれた、あの最初に光った小さな石。夕日に透かしてかざすと、内部の石英の筋が黄金色に輝いた。三年かけて育ててきた、俺だけの「証拠」。
「——今度こそ」
呟いた声は、夕風に紛れて誰の耳にも届かなかった。
「俺の価値は——俺の手で、証明する」
魔石をぎゅっと握りしめて、俺は王都の門に向かって歩き始めた。門の上では、衛兵たちが夕日を背に、行き交う人々を見下ろしている。その中に——俺は紛れ込むように、一歩を踏み出した。
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