4話 百パーセント
4話 百パーセント
翌朝、凛は言った。「つきあってほしい場所がある」——
それは、ギルド受付カウンターの裏側だった。
「えっ」
「なに驚いてるの。別に禁域じゃないわよ」
確かに禁域ではない。でも、俺のような雑用係が入る場所でもなかった。
壁一面に貼られた羊皮紙。棚に並んだ無数のファイル。受付の華やかなカウンターとは打って変わって、ここはギルドの心臓部——依頼管理室だ。
「普段は私と先輩受付ふたりで管理してるんだけど、今は誰もいないから」
凛は壁の一角を指差した。そこだけ周囲と違って、整理された様子が異様だった。
「あなたが仕分けた依頼書は、全部こっちに移動してもらってるの。こっちのほうが私が集計しやすいから」
「……集計、ずっと続けてたんですか」
「当たり前でしょ。言ったでしょ、三ヶ月かけて証明するって」
彼女は棚から一冊の厚いファイルを取り出して、机の上に広げた。中には、三週間分の依頼記録がびっしりと書き込まれている。一枚一枚に——受付日、編成者、参加メンバー、達成状況、負傷者数、報酬。すべて彼女の丸い字で整理されていた。
「昨日のワイバーン討伐で、データは十二件になった」
凛はファイルの最後のページを開いた。
「ここを見て」
一本の指が、集計欄をなぞる。
『朔関与依頼:12件 達成12件 失敗0件 死者0名 重傷者0名』
「……百パーセント」
俺は声に出して数字を読んでいた。
「この三週間、あなたが編成に関わった依頼は全部で十二件。これはね、ただの偶然じゃありえない数字なの」
「でも、まだ十二件しか」
「少ないと思う?」
凛は別のファイルを取り出した。こちらはもっと分厚い——ギルド全体の全依頼記録だ。
「同じ期間の、あなたが関わらなかった依頼は——百四十七件」
彼女はページをめくった。
「達成数、百一。失敗、四十六——達成率は六十八パーセント。これだけなら、まあ、ギルドの平均的な数字よ」
指が、別の列に移動する。
「問題はこっち」
『死者数——七名』
「そして、先週一週間だけで——五名」
ギルドの空気が変わったように感じた。
窓から差し込む朝の光が、なぜか冷たく感じられる。受付ホールからはいつもの喧騒が聞こえているのに、この部屋の中だけ時間が止まったようだった。
「……七名」
「うん。あなたが関わった依頼じゃ、一人も死んでない。かすり傷すら、ほとんどない。でも、あなたの手を通らなかった依頼だけで——七名」
凛はファイルを閉じて、俺のほうを向いた。
「これ、偶然で説明できると思う?」
俺は答えられなかった。
彼女が次に取り出したのは、一枚の折りたたまれた羊皮紙だった。広げると、中には小さな表が描かれている。
「これは、依頼の難易度別の集計。上からF、E、D、C、B——あなたが関わった十二件は、全部Dランク以上。つまり比較的難しい依頼ばかり。なのに——成功率百パーセント」
彼女は机の端に腰かけて、ゆっくりと呼吸を整えた。
「逆に、あなたが関わらなかったDランク以上の依頼——」
数字を指す指が、かすかに震えている。
「達成率、四十三パーセント。半分以下」
「……なんで」
「私が聞きたい」
凛は羊皮紙を机の上に戻して、両手を組んだ。
「あなたの『整理』スキル——鑑定では『書類の整理ができる』って出ただけだった。でも、この数字を見る限り、それだけじゃない」
彼女は深く息を吸って、口を開いた。
「ねえ、桐生くん。あなたが依頼書を見るとき——冒険者の顔が浮かばない?」
俺の手が、無意識に万年筆を探していた。机の上に置いたそれを指でなぞりながら、ゆっくりと口を開く。
「……浮かびます」
「どんなふうに?」
「依頼書を読むと——まるで、その依頼にぴったりの冒険者の顔が、頭の中に勝手に並ぶんです。誰と誰を組ませれば生き残れるか、誰が前に出るべきか、誰が後ろで支えるべきか——」
声に出して説明してみると、改めて自分の感覚が「普通じゃない」ことに気づかされる。
「でも、それは——」
「まだ自分を信じられない?」
凛の声は柔らかかった。責める調子じゃない。ただ、事実を確認しているだけだ。
「信じるとか、そういうことじゃなくて。俺は」
言葉が詰まる。ポケットの万年筆を握りしめた。キャップの冷たい感触が、指先に沁みる。
「——俺は、整理しかできないんです」
凛は答えなかった。代わりに、ファイルをもう一冊取り出して、そっと机の上に置いた。
「これ、今日のために用意したの」
開かれたページには、昨日のワイバーン討伐の戦闘記録。バッシュとシェリルが提出した報告書の写しだった。
『編成が完璧だった。前衛が敵の注意を引きつける間に側面から攻撃——ワイバーンの動きがまるで読まれていたかのようだった』
『即席パーティとは思えない連携。誰が考案したのか、編成者は天才としか言いようがない』
「あなたは、これを『整理しかできない』って言うの?」
俺は報告書の文字を、何度も読み返した。
「……俺は」
——俺は、ただの書類整理係だ。
そう言おうとした。でも、もうその言葉は口にできなかった。
「桐生くん。鑑定ってね、見えるものを映すだけじゃないの」
凛は壁にかかった古い鑑定石の予備を見上げながら続けた。
「私は受付を六年やってきて、何百人もの鑑定結果を見てきた。大剣士、魔術師、治癒師——全部、名前通りの結果だった。でも、あなたのは違った」
「違った?」
「『整理員』なんて職業、過去に一人もいない。ギルドの記録にもない。完全に未知の職業——それってつまり、鑑定石があなたの能力をうまく表現できなかったってことじゃない?」
彼女は机から降りて、俺の正面に立った。
「『整理』っていう枠に、あなたの力は収まらない。書類も、情報も、人も。あなたはすべてを整理できる。それが、あなたの本当のスキルなんだと思う」
すべてを整理できる。
その言葉を聞いた瞬間——頭の奥で、何かがはっきりとした形になった気がした。
「……俺のスキルは、整理なんですね」
「そう」
「書類も人も——」
「そう。だから今日からは、あなたのことをこう呼ぶ」
凛はにっこりと笑った。
「パーティ編成の専門家。ギルドで唯一の、『編成師』」
編成師。
初めて誰かにつけられたその称号が、やけに胸に響いた。
でも——同時に、怖くもあった。
「……失敗したら」
俺の声は、自分でも驚くほど小さかった。
「俺が編成したパーティが、もし失敗したら。そのとき——死ぬのは、俺じゃなくて、俺が選んだ人たちだ」
凛の笑みが消えた。
「それって——もし俺の判断が間違ってたらって、そういうことでしょ」
そうだ。俺の判断が誰かの命を危険に晒す——その可能性が、背筋を冷たくした。中学の教室で「お前の案じゃ誰も来ない」と言われたときとは、重みが違う。
「……桐生くん」
凛は俺の目の高さまでかがみ込んで、静かに言った。
「あなたの編成がなければ、すでに七人が死んでいた。でも、あなたの編成で十二件——誰も死んでない。あなたがいるから、死なずに済んだ人がいる」
彼女は机の上のファイルを指差した。
「考え方を変えて。『あなたが選ばなかったら、もっと多くの人が死んでいた』——そういう風に」
俺はしばらく、机の上の数字を見つめていた。
十二件。百パーセント。零名。
その数字が、少しずつ、現実味を帯びてくる。
「……俺に、できるでしょうか」
「できるできないじゃない」
凛は背筋を伸ばして、断言した。
「もう、やってる。一ヶ月前からずっと」
窓から差し込む朝の光が、いつの間にか部屋中を満たしていた。さっきまで冷たく感じた光が、今はなぜか——少しだけ温かい。
「ねえ、一つ提案があるんだけど」
凛が突然、声のトーンを変えた。いつもの受付の声——何かを企んでいるときの、ちょっとだけ弾んだ口調。
「このデータ、ギルドマスターに見せない?」
「……ギルドマスターに?」
「御子柴さん。今は長期視察で留守にしてるけど、来週には戻る予定なの。あの人、数字にめっぽう強くて——」
彼女はにっこり笑った。
「この数字を見たら、きっと腰を抜かすわ」
「ちょ、ちょっと待ってください。まだ十二件ですし——」
「あら、昨日『まだサンプルが少ない』って私が言ったら、あなた『たまたまかもしれません』って言ったじゃない」
「……それは」
「今度は逆ね」
凛は笑いながら、ファイルを棚に戻していった。振り返って、真剣な目で続ける。
「でも、本気で考えておいて。あなたの力を、ギルド全体のために使うべきだと思う。私だけが知ってるんじゃ、もったいない」
俺は答えを出す代わりに、机の上の万年筆を手に取った。
祖母の万年筆。この世界に来てから、一度も書けなかった手紙。誰に宛てるでもない、ただの落書きだけど——万年筆を握ると、心が落ち着く。
「……来週までに、考えておきます」
「うん。それでいい」
凛は部屋の出口に向かいながら、振り返って言った。
「あ、それと——今日から、編成依頼は直接あなたのところに回すから」
「えっ」
「もう『ついで』に仕分けてもらう段階じゃないの。正式に、編成業務として依頼するから。受付の凛から、ギルド編成師の桐生朔へ——以上、業務連絡でした」
彼女はぴっと敬礼の真似をして、足早にホールへ戻っていった。
俺は一人、依頼管理室に残された。
壁一面のデータ。机の上のファイル。そして手の中の万年筆。
編成師——か。
誰も気に留めなかった書類室の整理係は、いつの間にか、ギルドの「見えない要」になろうとしていた。
それに気づいているのは、まだたった一人。でも——その一人が、俺よりもずっと、俺の力を信じていた。
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