2話 依頼書の山

ハズレ職「整理員」ですが、俺が組んだパーティは達成率100%です2026-06-01 16:18:03

2話 依頼書の山

あの日から、俺の日常は依頼書の山と共に始まった。
朝一番にギルドに着き、誰にも声をかけられることなく書類室へ向かう。埃っぽい部屋の隅で、前日に仕分けた束の続きに手を伸ばす。それが俺の朝だった。
棚は三日でほぼ埋まった。床に散乱していた羊皮紙が束に変わり、期限順に並べ替えられ、依頼ランクごとに棚へ収まっていく。誰かに頼まれたわけじゃない。ただ、やらずにはいられなかった。
一枚、手に取る。
『ゴブリン討伐依頼——報酬銀貨三枚。推奨ランク:F〜E』
文字を目で追ううちに、頭の中で別の情報がぱっと浮かぶ。三日ほど前に受付で見かけた若い剣士——まだ駆け出しだったが、動きに無駄がなかった。ゴブリン相手なら十分だろう。その隣に、治癒師の少年、朝比奈優真。彼がいれば帰還率は跳ね上がる。もう一人——後衛から援護できる弓手が必要だが、心当たりが一人いる。
ぱらぱらと記憶の中の顔をめくる。先週、掲示板の前で依頼を探していた深緑のマントの男——弓を背負っていた。彼は単独行動を好むタイプだろうが、この編成なら噛み合う。
(……まあ、俺が考えても仕方ないか)
結局、俺はただの書類整理係だ。誰かを編成する権限なんてあるはずがない。
気づけば手が止まらず、依頼書の隅に——あくまで走り書きで——適任者らしき名前を添えていた。
最初の一週間は、それだけだった。
朝、書類を仕分ける。昼、西園寺副マスターに呼ばれて倉庫の掃除を命じられる。夕方、また書類に戻る。夜、ギルドの明かりが消えるまでペンを走らせる。
誰も俺の作業を気にしなかった。たまに通りかかった職員が「まだやってたのか」と呆れた顔をするくらいで——それ以上でも以下でもなかった。
ただ一人を除いて。
その日の午後だった。
書類室の扉が、控えめにノックされた。
普段ここに来るのは副マスターか、たまに迷い込んだ新人冒険者だけだ。どちらでもない気配に顔を上げると、赤茶色の髪をポニーテールにした女性が立っていた。
綾瀬凛——鑑定式の日に受付カウンターで俺を見ていた職員だ。
「こんにちは。ちょっと、いいかしら」
「……なんでしょうか」
書類を置いて立ち上がろうとする俺に、彼女は手で制した。
「座ってて。ちょっと見に来ただけだから」
見る——何を?
彼女は近づいてくると、棚に並んだ依頼書の束を順に眺めた。指で端をつまみ、一枚一枚、分類を確認するように。
「……これ、ぜんぶ一人で?」
「はい」
「何日かけて?」
「ええと、三——いや、四日くらいです」
凛がこちらを振り向いた。眉がわずかに上がっている。
「四日で、これだけ」
「……遅かったですか」
「逆」
彼女はそれだけ言うと、もう一度棚に向き直った。依頼書を手に取り、裏面の走り書きをじっと見つめる。俺が適任者として書き添えた名前だ。
「ねえ、これって」
「あ、すみません。勝手に書き込んで。消します」
「そうじゃなくて——」
凛が言いかけたとき、廊下から大声が響いた。
「桐生! 倉庫の棚卸し、やってあるか!」
西園寺副マスターの声だ。
「……はい、今行きます」
俺が立ち上がると、凛は持っていた依頼書を元の位置に戻した。背筋を伸ばしたまま、ゆっくりと口を開く。
「また来るわ」
それだけ言い残して、彼女は書類室を出ていった。去りぎわ、入り口のところでもう一度だけ振り返り、棚の並びを——正確には、俺の手が触れた書類の見事な整列を——じっと見つめていた。
(また来るって……なんだろう)
よくわからないまま、俺は倉庫へ向かった。
それから数日、凛は本当に何度も書類室に現れた。
「古い依頼記録、どこに保管してあるか分かる?」
「去年の冬の魔獣討伐の報告書、出せる?」
「ねえ、この依頼書の右上の記号、何の意味?」
最初はごく普通の業務連絡だった。ギルド受付のエースとして、書類の管理状況を確認しに来ている——そんな感じだった。
でも、三日目くらいから、質問の質が変わった。
「桐生くんってさ、依頼書を読むとき、いつも眉がぴくって動くんだけど」
「え?」
「今も。気づいてなかったの?」
俺は咄嗟に自分の眉に手をやった。言われるまで、そんな癖があるとは思ってもみなかった。
「それと、これ」
凛が差し出したのは、俺が書き込んだ走り書きの名前の一覧だった。小さなメモ用紙に、彼女の丸い字で清書されている。
「私、気になって確認したの。あなたがこの三週間で書き込んだ名前——全部で四十七件。そのうち、実際に依頼を受けた冒険者が三十八件」
彼女は一拍置いて、紙から顔を上げた。
「成功数、三十八件。失敗、ゼロ」
書類室に沈黙が落ちた。
俺はなんと答えればいいのかわからなかった。ただ、メモ用紙に並んだ数字を見つめ返すことしかできない。
「……偶然じゃないよね、これ」
凛の声が、いつもより少しだけ低くなっていた。
(偶然、だと思う)
そう言おうとした。だって俺はただ——仕分けをしていただけだ。適切な依頼を適切な人に振り分ける。それだけのことだ。
でも。
並べられた数字が、あまりにも綺麗だった。
「……まだ検証が足りないと思うけど」
凛はメモ用紙をポケットにしまいながら続けた。
「もう少し、データを集めてみる。あなたは今まで通り、やっててくれる?」
「は、はい」
「よし」
彼女は口元をほころばせると、初めて——この三週間で初めて——穏やかな笑みを見せた。
「じゃ、また来る」
靴音が遠ざかったあとも、俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。
あの数字が何を意味するのか、よくわからなかった。
でも——『やっててくれる?』という言葉だけが、妙に耳の奥に残っていた。
同じ日の夕刻。
書類室にまた別の訪問者があった。
「あの——桐生さん」
顔を上げると、柔らかな茶色の髪と丸い眼鏡の少年が入り口に立っていた。朝比奈優真——あの鑑定式で「治癒師」を言い渡された転生者だ。
「お邪魔ですか?」
「……いや、別に」
優真は遠慮がちに中に入ってくると、整理された棚を物珍しそうに見回した。壁際の古い椅子に腰を下ろして、少しだけ迷うような間を置いてから口を開く。
「あの、この前のゴブリン討伐依頼——僕が入ったパーティのやつなんですけど」
「はい」
「すごく、やりやすかったんです。剣士の人が前に立ってくれて、弓の人が遠くから援護してくれて。僕は後ろで回復に専念できて」
彼は膝の上で指を組み合わせながら、言葉を探すように続けた。
「それで、あとから聞いたんです。あの依頼書に、『適任』って僕の名前が書いてあったって」
そうだった。俺は確かに、優真の名前を書き込んだ。
「……ありがとうございます」
優真は深々と頭を下げた。眼鏡がずれるのも気にせず、何度も繰り返す。
「もし、また機会があったら。僕、頑張りますから」
「いや、俺は……ただ思った名前を書いただけで」
「でも、それで誰かが助かったんです。それって」
彼は顔を上げて、真っすぐに俺を見た。
「整理員も、すごい仕事だと思います」
胸の奥で、何かが小さく動いた。
久しぶりに——本当に久しぶりに——誰かに必要とされた気がした。
「……ありがとう」
気がつくと、そう口にしていた。
その後も、書類の山は減らなかった。
むしろ増えた。俺が整理した棚を見た他の職員が、奥に眠っていた古い書類の束まで「ついでに」と持ってくるようになったからだ。
五年分の依頼記録。十年来の未整理ファイル。誰も手をつけられなかった書類の墓場。
俺は淡々と、それらを解体し、分類し、新しい棚に並べた。やり方は単純だ——一枚読み、頭の中に浮かぶ情報と照らし合わせ、最適な位置に収める。目を通すスピードは週を追うごとに上がっていった。
仕事の合間にも、冒険者たちの顔と名前を覚えていった。受付の声から耳に入る会話、酒場での喧嘩、成功談と失敗談。それらすべてが、頭の中で整理されていく。
万年筆のインクが切れた日、俺ははじめてギルドの備品庫から新しいインク壺を借りた。この世界のインクは少し粘度が高くて、ペン先に馴染むまで時間がかかった。でも、キャップを外すときのカチッという音だけは変わらなかった。
三週間目の夜。
最後の依頼書を棚に納めて、椅子の背にもたれた。
壁一面の棚が、綺麗に整列している。期限順、難易度順、必要な職種別。誰が見ても、どこに何があるか一目でわかる。
(まあ、俺がいなくても、すぐにまた散らかるんだろうけど)
そう思いながら立ち上がったとき、書類室の扉が勢いよく開いた。
「桐生くん、ちょっと」
凛だった。肩で息をしている。走ってきたのか、ポニーテールが乱れている。
「……どうしました」
「見て」
彼女が机の上に広げたのは、びっしりと数字が書き込まれた数枚の羊皮紙だった。依頼受注日、編成者、達成状況、生死——ギルドの全依頼記録が、彼女の手で集計されている。
「この三週間、あなたの手を通った依頼書に基づいて編成されたパーティ。全部でたったの十一件。少ないけど、ちゃんと動いてくれた冒険者たちがいる」
彼女の指が、羊皮紙の一点を押さえた。
「成功、十一件。死者、ゼロ。重症者、ゼロ」
指が、別の数字に移動する。
「同じ期間の、あなたの手を通らなかった依頼——これがギルドの通常の数字。達成率は六十七パーセント。死者は四名。重軽傷者を合わせると、二十三名」
凛は顔を上げて、俺の目をまっすぐに見た。
「私、六年前からここで受付をしてる。こんな数字、見たことがない」
窓の外から、夜の虫の声が聞こえていた。ホールではまだ誰かが酒を飲んでいる。ジョッキが机に置かれる音が、やけに遠くに聞こえた。
「……まだサンプルが少ないです。たまたまかもしれません」
俺が絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。
「うん。だからこれは、まだ仮説」
凛は羊皮紙を丁寧に巻き取りながら、静かに言った。
「でも、三ヶ月あれば、はっきりすると思う」
「三ヶ月?」
「あなたの価値が、誰の目にも明らかになるまでの時間」
彼女は巻き終えた羊皮紙を抱えて、背筋を伸ばした。その目は、もう迷っていなかった。
「私は、見届けるから」
そう告げて、凛は書類室を出ていった。
俺は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
机の上には万年筆。窓の外には二つの月。棚には、俺が整理した依頼書の山。
そして胸の奥には——名前をつけられない、かすかな震え。
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