5話 土と共に
5話 土と共に
菜種の芽が出てから、季節はゆっくりと動き始めた。
四月の終わりにちらついた雪は遠い記憶になり、五月に入ると山間の村にも本格的な春が訪れた。畑の周りの雑草が一斉に緑を濃くし、遠くの山々の雪解け水が小川となって谷を流れ落ちる。朝晩はまだ上着がないと肌寒いが、昼間は鍬を振るっていると額に汗が滲むほどの陽気だった。ツバメが納屋の梁の上に巣を作り始め、ひな鸟の声で目を覚ます朝が増えていった。
俺の畑仕事は、驚くほど順調に進んでいた。
最初は石に跳ね返されてばかりだった鍬も、今では狙った深さにすっと入る。手のひらの水膨れはすっかり固いタコに変わり、革手袋なしでも半日は平気で鍬を振り続けられるようになっていた。土を起こすリズムが体に染みついて、無心で、それでいて正確に——朝の二時間で畝を一本仕上げられるようになった自分に、少し驚いた。
ガルドは相変わらず何も言わなかったが、変化はあった。俺が耕した畝をちらりと見て、小さく——本当に小さく——頷く回数が増えた。たぶん、気のせいではない。俺はこの三ヶ月で、ガルドの表情の読み方を少しずつ覚え始めていた。眉がわずかに上がれば「悪くない」。口元がきゅっと締まれば「まだまだ」。何の反応もなければ——それは「合格」だ。この人の合格は、いつも沈黙の中にあった。
一番変わったのは——作物だった。
菜種はあっという間に膝の高さまで伸び、五月の終わりには一面の黄色い花を咲かせて畑を埋め尽くした。朝霧の中で揺れる菜の花畑は、それだけで一つの風景だった。大根は隣の畑の二倍近い太さに育ち、引き抜くのに腰を入れなければならないほど。葉の緑も驚くほど濃く、虫食いの跡がほとんどない。玉ねぎは丸々と太り、土から頭を出した部分が朝日に照らされてつやつやと紫色に輝いている。豆は蔓をどこまでも伸ばし、支柱が足りなくなってガルドが黙って竹を切り足してくれた。
どれもこれも——俺が触れた畝だけが、明らかに育ちが良かった。
ガルドが同じ日に蒔いた隣の畝と比べると、違いは一目瞭然だった。葉の色、茎の太さ、実の大きさ——すべてが二割増し。数値で測ったわけではないが、目で見てわかる差だった。
(……やっぱり、俺のせいだよな)
理由は頭ではわからなかった。種も苗もガルドから分けてもらった同じもの。水やりの量も、雑草の抜き方も、教えられた通りにしかやっていない。ただ一つだけ——俺の手が触れた土が、ほんの少し温かくなる。掌で包み込んだ種が、埋める前にぽっと熱を帯びる。その熱が、どこかで作物の根に伝わっているのかもしれない。それ以外に説明のつけようがなかった。
でも——怖くはなかった。追放の夜に初めて感じたあの温もりは、今ではすっかり「当たり前」になっていた。
「ガルドの旦那、畑になんか撒いてるんじゃないか」
村の井戸端で、そんな噂が聞こえ始めたのは六月の初めだった。
朝早く、水を汲みに行くと、洗い物をしていた女たちがひそひそと話しているのが聞こえた。「隣の畑と育ちがまるで違う。秘伝の肥料か何か——」「あの若いのは旦那の親戚かなんかか? 見かけねぇ顔だが、見るたびに泥だらけで働いてるぞ」「さあな。でも旦那が面倒見てるなら、まあ——悪いようにはならんだろう」
ガルドはこの村では変わり者で通っているらしかった。三十年近く前に一人で村に流れ着き、以来ずっと独りで畑を耕し、独りで飯を食い、滅多に口をきかない。村の寄り合いにもほとんど顔を出さず、誰かが訪ねてきても必要最小限のことしか話さない。誰かの葬式にも、誰かの結婚式にも、顔を出したという話を聞いたことがない。
でも——だからこそ、村人たちはガルドを「放っておく」ことを覚えていた。この村は、よそ者に冷たい代わりに、一度受け入れたよそ者はとことん放っておく。「旦那が何か企んでるなら、まあ好きにさせとけ」というのが、ここでの暮らし方だった。
ガルドは噂を耳にしても、何も言わなかった。俺にも、村人たちにも。ただ黙って畑を耕し、黙って麦粥を啜るだけだった。でも——以前より少しだけ、俺の畝を見る回数が増えた気がした。
(この人は——わかっているんだろうか。何か、知っているんだろうか)
俺がそう考えていると、ある日の夕方だった。鍬を洗って小屋に戻ると、囲炉裏の前に座っていたガルドが、ぽつりと言った。
「お前さんが触った土は、よく肥える」
火を見つめたまま、それだけだった。他に何の説明もなく、俺が追放されたわけも、魔法のことも、何も聞かずに。ただ——事実を一つだけ、口にした。
俺は返事に困って、しばらく黙っていた。「そうです」と言うのは違う気がしたし、「違います」と言うのも嘘だった。
「……ガルドさんは、いつから気づいてたんですか」
「最初から」
短い答えだった。雪の降る夕暮れに、納屋の軒下で震えていたあの日から。この老人は、俺がただの「才能ゼロの追放者」ではないことを、どこかで感じ取っていたのだ。
「なんで——追い出さなかったんですか」
「腹が減ってたからだ」
それっきり、ガルドは何も言わなかった。火掻き棒で囲炉裏の灰をならす音だけが、狭い小屋に響いた。
俺は麦粥の鍋をかき混ぜながら、唇を噛んだ。腹が減っていたから——たったそれだけの理由で、得体の知れないよそ者の子供を受け入れたのだ。この老人は。三十年間、誰にも頼らずに生きてきて、それなのに。
(——ありがとう、なんて言ったら、多分怒るんだろうな)
そんなことを考えて、俺は少しだけ笑った。
畑にいちばん安らぎを感じるようになったのは、それから間もなくだった。
気温がぐっと上がり、村全体が夏の日差しに包まれる季節。朝は夜明け前に起きて鶏の餌をやり、朝露が乾かないうちに草を抜く。日が高くなったら鍬で畝を整え、昼を過ぎたら沢から水を桶で運んで撒く。夕暮れには明日の種を選り分け、囲炉裏で麦粥をかき混ぜながら、その日一日のことを独り言のように話した。
ガルドはほとんど返事をしなかった。「ふうん」とか「そうか」とか、時々相槌を打つだけ。でも——その短い相槌が、不思議と心地よかった。
必要なときだけ口を開き、必要でなければ黙っている。沈黙が苦にならず、むしろ沈黙こそが会話の一部であるような——そんな関係を、俺は生まれて初めて知った。屋敷では沈黙は「気まずいもの」だった。常に誰かの顔色を伺い、適切な言葉を選ばなければならなかった。でもここでは、沈黙もまた「大丈夫」の合図だった。
そして何より——畑にいるときは、悪夢を見なかった。
追放の日の夢は、今でも時折よみがえる。特に雨の夜はだめだ。屋根を叩く雨音が、あの日の街道を思い出させる。父の声が耳の奥でこだまし、エドガー兄上の俯いた顔が浮かぶ。目が覚めて、暗い納屋の隅で土を握りしめ、呼吸が落ち着くのを待つ——そんな夜は今でも月に何度かあった。
でも——昼間は違った。
日差しを浴びて土の匂いを胸いっぱいに吸い込む。鍬を振り下ろすたびに汗が飛び、大根の葉に朝露が弾ける。指先で種を一粒ずつ、まるで宝物でも扱うように土に埋める。芽が出た朝にしゃがみ込んで、昨日よりどれだけ伸びたか、葉が何枚増えたか——そんなことを、子供みたいに数えている自分がいた。
そんな時間の中では——過去は、遠くに行った。少なくとも、手の届かない場所に。常にそこにあるのに、今の自分からは隔てられている——そんな距離感だった。
(これが——俺の、魔法の代わりなのかもしれない)
かつて魔法学院の教科書で夢中になって読んだ「魔力循環」の理論を、ふと思い出すことがあった。魔力は体内で生成され、空気中の元素と交わりながら循環する。過剰な魔力は大地に還元され、やがて新たな命の糧となる——そんな一節があった。もし。俺の「ゼロ」が「無」ではなく「測定不能な何か」なら。この土と、作物と、俺の手のひらの間で、目に見えない循環が起きているのかもしれない。
でも、それを確かめる術はなかった。確かめたいとも、あまり思わなかった。
(べつに——魔法が使えなくても、いい)
この生活が、魔法よりも重く、確かに感じられたから。
夕餉の時間が、一日でいちばん好きな時間になった。
日が完全に沈み、谷間に深い闇が訪れる頃。囲炉裏の火だけが灯りの中で、二人分の麦粥の湯気が立ち昇る。具は相変わらず何も入っていない。塩だけ。でも——いつからか、食卓に俺が漬けた大根の漬物が並ぶようになってからは、それだけで十分なご馳走だった。
「今日の大根、中が詰まってるな」
ガルドが珍しく、自分から口を開いた。漬物を一切れ箸でつまみ、口に放り込む。皺だらけの頬が、わずかに動いて——口元が、ほんの少しだけほころんだ。
「……うまい」
俺は椀を持ったまま、動きを止めた。
この三ヶ月、ガルドが俺の作ったものを言葉で褒めたのは——初めてだった。いや、そもそも誰かに料理を褒められたこと自体が生まれて初めてだ。屋敷では料理長がすべてを用意し、俺が何かを作る機会すらなかった。
胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。それを隠すように、俺は麦粥を一口すすった。
「……よかった」
精一杯の返事だった。それ以上は、声が震えそうで言えなかった。
ヴァンデルト家の食卓には、毎日十品以上の料理が並んでいた。前菜から始まり、肉料理、魚料理、スープにデザート——どれも王都でも指折りの料理人が腕によりをかけたものだった。テーブルクロスは真っ白で、銀の燭台がきらめき、ワイングラスの位置は指一本分の狂いもなく並べられていた。
でも、あの食卓に「温かさ」はなかった。父はいつも片手に書類を持ち、料理を「摂取」しながら次の会議の準備をしていた。兄たちは互いの魔法の成績を競い合い、学校での序列を確認すること以外に興味を示さなかった。料理長が「今日の仔羊の焼き加減はいかがでしょうか」と尋ねても、父は「いつも通りだ」とだけ答えた。誰一人として、味について語ったことはなかった。
(あれは——食事じゃなかったんだ。ただの「栄養補給」だった)
小屋の麦粥と漬物は、豪華でもなければ美しくもない。でも——ここには、隣で黙って椀をすするガルドがいる。火の爆ぜる音がする。囲炉裏の熱で顔がほてり、汗ばんだ額を拭う。麦粥の中に、自分の畑で採れた麦が入っている——その一粒一粒を噛みしめる。
そして「うまい」の一言。
それだけで、腹の底からじんわりと——温かくなった。
夜も更けて、囲炉裏の火が残り火だけになった頃だった。
たぶん、七月に入ってすぐの夜だったと思う。麦粥を食べ終えた椀を膝の上に置いたまま、俺はぽつりと言った。
「俺——昔は魔法使いになりたかったんです」
ガルドは火掻き棒を手にしたまま、動きを止めなかった。赤くくすぶる炭を、ゆっくりと灰の中に沈めていく。
「でも、魔法の才能がなくて。十二歳の鑑定の儀で、ゼロって判定されて——それで、家を追い出されました」
「……ほう」
「その後、ここに来ました。あんたに拾われて、畑を手伝うようになって——」俺は一度言葉を切って、自分の手を見た。固くなったタコと、土の染み込んだ指先。「こうやって畑を耕してると——べつに、魔法が使えなくても、生きていけるんだなって思うんです」
そう口にしてから、自分でも驚いた。本心だった。三ヶ月前——いや、一ヶ月前ですら、魔法を手放すなんて考えられなかった。魔法こそが自分のすべてで、それを失えば生きている意味がないとさえ思っていた。
でも今は——鍬を握り、土を耕し、種をまき、芽吹きを見守り、大根を引き抜き、漬物にして、ガルドと二人で黙って麦粥をすする。そんななんでもない一日の積み重ねが、魔法の何倍も、この手の中に確かに残るものだと感じられた。
ガルドはしばらく沈黙していた。火掻き棒を置き、残り火をじっと見つめる。やがて、いつもより少しだけ低い声で言った。
「……魔法は知らん。わしにゃ、ようわからん」
一言ずつ、区切るように。
「だが、土は知ってる。土は逃げん。踏まれても、掘り返されても——種を撒けば芽が出る。肥やしをやれば、よう肥える。それだけだ」
「……それだけ、ですか」
「それだけで、十分だ。魔法が使えようが使えまいが——腹は減る。食わなきゃ死ぬ。そのために土を耕す。それで生きていけるなら、それでいい」
その言葉は——たぶん、俺がこの三ヶ月で聞いたガルドのどんな言葉よりも長かった。それ以上に——たぶん、ガルドが誰かに語ったどんな言葉よりも、本心に近いものだったと思う。
俺は少しだけ笑った。自然に、口元が緩んだ。
「ガルドさん——あんたは、すごい人だな」
「……阿呆」
ガルドはそっぽを向いた。でも——囲炉裏の火に照らされた皺だらけの横顔の、口元がほんの少しだけ緩んでいた。今度こそ——気のせいじゃなかった。
その夜、納屋の藁に横たわりながら、俺は長いこと梁を見つめていた。ツバメの巣から、寝息のようなかすかな羽音が聞こえる。
(魔法が使えなくても、これなら生きていける)
そう思える自分が、不思議だった。雪の降る夕暮れに、死ぬことだけを考えていたあの十二歳の少年が——今は土と共に、ちゃんと生きている。
明日も畑に出よう。大根の二回目の種を蒔く時期だ。夏大根は秋大根より辛みが強いとガルドが言っていたから、漬物にしたらまた違う味になるだろう。それをガルドにうまいと言わせるのが、今の俺の——ささやかな目標だった。
そう考えながら、俺は目を閉じた。
その夜は——久しぶりに、悪夢を見なかった。
Enter any idea,
and AI completes the work in one click
