4話 独りの夜と新しい朝

才能ゼロで追放された三男、実は最強の無属性でした2026-06-01 15:02:27

4話 独りの夜と新しい朝

納屋の朝は、屋敷の朝とは何もかもが違っていた。
まず、窓がない。壁板の隙間から差し込む細い光が、唯一の明かりだ。次に、ベッドがない。俺は藁を敷き詰めただけの隅に丸まって眠り、夜中に何度も寒さで目を覚ました。それから——誰も起こしに来ない。屋敷では使用人が決まった時間に戸を叩き、着替えを用意し、朝食の席に遅れないようにと急かしたものだが、ここにはそんなものは一切ない。目が覚めたら自分で起きる。それが当たり前の朝だった。
目を開けて最初に飛び込んできたのは、梁に吊るされた乾燥中の玉ねぎの束と、壁に立てかけた鍬の影だった。土と藁の匂い。どこかで鶏が鳴いている。昨夜の雪はすっかり止み、地面はぬかるんで朝日を受けてきらきらと光っている。村の他の家からは朝食の煙が立ち昇り始めていた。
(——ここが、今日からの俺の場所か)
革袋から御者の男にもらった乾パンの二つ目を取り出してかじりながら、俺は裸足のまま土間に降りた。足の裏に冷たい土の感触が伝わる。ひんやりとしていて、それでいて少しだけざらざらしている——屋敷の磨き抜かれた石畳とはまったく違う感触だった。
ガルドはすでに起きていた。囲炉裏の前にあぐらをかき、黙々と鍬の刃を砥石で研いでいる。規則正しい、無駄のない動き。手首のスナップだけで砥石を滑らせ、時折指先で刃の状態を確かめる——何十年も同じ動作を繰り返してきた手つきだった。
「……おはよう、ございます」
声をかけたが、ガルドは顔を上げずに「おう」とだけ返した。今朝もそれだけだ。昨夜、どこの誰とも知れぬ子供を家に入れて、外套までかけて——それなのに、俺の素性について一言も問わない。
(聞かないわけじゃない。聞く必要がないんだ——この人にとっては、誰であろうとどうでもいい)
そう思うと、なんだか妙に気が楽だった。ここでは俺は「ヴァンデルト家の恥」でもなければ「才能値ゼロの落ちこぼれ」でもない。ただの「畑を手伝うガキ」だ。「畑を手伝うならな」——昨夜のガルドの言葉が、俺の存在を定義するすべてだった。
ガルドは砥石を置くと、壁からもう一本の鍬を取って俺に手渡した。柄はすり減って手の脂が染み込み、刃は使い込まれて先端が薄くなっている——古いが、手入れは行き届いていた。
「握り方は——こうだ」
実演だった。ガルドは鍬の柄の持ち方、腰の入れ方、振り下ろす角度を、一言一言を絞り出すように教えた。多くを語らない男が、必要最小限の言葉だけを選んで伝える。俺は見よう見まねで鍬を握った。思ったよりずっと重い。柄はざらざらとしていて、魔法書の滑らかな背表紙とも、ペンの磨かれた軸とも、屋敷で触れたどの道具とも感触が違った。
畑は小屋の裏手に広がっていた。春の日差しを浴びた黒い土が、昨夜の雪解け水を吸ってしっとりと濡れ光っている。広さは——屋敷の庭園よりずっと狭いが、俺一人で耕すには途方もなく広く感じられた。ガルドは無言で畝の端に立ち、鍬を振り下ろした。土がめくれ、中からたっぷりと湿り気を含んだ黒い層が顔を出す。その断面からは、細かく刻まれた去年の藁と、ミミズの這った跡が見えた。
俺も隣に立って、鍬を振るった。
(——かたい)
想像の三倍は固い。貴族の子が知っている「土」は、庭園の花壇の柔らかな黒土だけだった。畑の土は違う。石が混じり、去年の作物の根が張り、冬の間に霜で固く締まっている。鍬の刃が跳ね返されて、手のひらにじんと衝撃が走る。
それでも俺は振り続けた。三回に一回はまともに土に入らず、五回に一回は石に当たって火花が散る。ガルドは何も言わず、自分の畝を淡々と耕し続けている。時々、手を止めて腰を伸ばす。その背中を見ていると——なぜか、手を止める気にはなれなかった。
一時間もしないうちに、手のひらが悲鳴を上げ始めた。
鍬の柄を握るたびに、皮が擦れて熱を持ち、やがて親指の付け根に水膨れが浮いた。それが破れて中の薄皮が露出し、そこから血が滲む。痛みで柄を握る力が抜けて、鍬が音を立てて土に落ちた。
(……くそ)
俺は膝をついて、自分の手を見つめた。貴族の子として十二年、ペンと魔法書のページしか握ったことのない手。白くて細くて、少し力を入れればすぐに赤くなるような、そんな手。それが今は、血と泥にまみれて震えている。
(——これが、今の俺の手か)
不思議と、嫌な気はしなかった。むしろ、これでようやく屋敷の残滓が剥がれていくような——そんな感覚さえあった。
ガルドが振り返り、俺の手を一瞥した。何も言わずに鍬を置き、小屋の中に消える。すぐに戻ってきて、布切れと小さな壺を俺の前に置いた。壺の中身は、何かの草をすり潰して練り込んだ軟膏だった。独特の青臭い匂いが鼻を突く。ガルドは俺の手を取ると、無言で軟膏を塗り、布を巻いた。指先でそっと包み込むような、その手つきは——驚くほど優しかった。鍬を振るう時の力強さとは別人のように。
「……慣れる」
それだけ言って、また畑に戻っていった。短い言葉だったが、その二文字は、初めて聞いたガルドの「励まし」だったのかもしれない。
俺は巻かれた布を見つめながら、唇を噛んだ。軟膏の冷たさが、火照った傷口にしみる。
(この人も、昔は——若い頃は、誰かにこうしてもらったんだろうか。それとも、誰もいなくて、自分で覚えたんだろうか)
そんなことを考えて、また鍬を握った。
その夜は、特別に疲れていた。
納屋の藁に倒れ込むと、体が鉛のように重い。手足は棒のようで、指を一本動かすのも億劫だ。昼間にガルドと囲炉裏で食べた麦粥の味が、まだ口の奥に残っている。食欲はなかったが、体が動くために「入れなければならない」ものとして、ただ流し込んだ。
目を閉じると——すぐに夢が始まった。
夢の中では、俺はまだ十二歳で、鑑定の儀の壇上に立っていた。水晶球に手を置くと、表面に一瞬だけ光が走り——針は動かない。ゼロ。「お前はヴァンデルト家の恥だ」という父の声が、大広間にこだまする。マクシミリアン兄上の歪んだ口元、使用人たちが閉めたカーテン。エドガー兄上が口を開きかけて——俯く。
(違う——俺は、ゼロじゃない)
叫びたいのに声が出ない。誰も振り向かない。石が光っていたのに、誰も見ていない。誰も信じない。俺の手の中だけで輝いて、そして消える。「お前は当家に存在する資格はない」。父の声が、耳の奥で何度も繰り返す。何度も。何度も。
——目が覚めた。
藁の上で跳ね起きると、全身に冷や汗をかいていた。心臓が早鐘を打ち、息が浅い。手を見る——暗がりの中で、自分の指が小刻みに震えているのがわかった。
(また、だ)
追放されてから——二週間は経つだろうか。ほぼ毎晩、同じ夢を見る。場所や出てくる顔は少しずつ変わるのに、最後は必ず父の声で終わる。あの声が、頭のどこかにこびりついて取れない。
俺は無意識に、藁の下の土に手を伸ばしていた。
固く詰まった納屋の土間。でも——指を押し当てると、掌の下からかすかな温もりが返ってくる。追放の夜に麦畑の畔で感じたのと同じ、大地の奥からゆっくりと波のように伝わる微かな鼓動。
(……これが、あるから)
自分でもよくわからない理屈だった。土が温かいから何だというのか。それで父の声が消えるわけでも、追放がなかったことになるわけでもない。何の役にも立たない。でも——それだけで、呼吸が少しずつ落ち着いていく。震えが指先から引いていき、早鐘を打っていた心臓がゆっくりと歩調を緩める。
(疲れただけだ。疲れているから、変な夢を見るんだ)
俺はそう言い聞かせて、もう一度藁に横たわった。疲労は真実だった。鍬を一日振り続けた体は限界で、頭もまともに回らない。だけどその「疲れ」が、かえって俺を支えていた——疲れ果てていれば、余計なことを考えずに済む。土と鍬と麦粥だけを考えていれば、過去は遠くに行く。
目を閉じる前、最後に頭をよぎったのは——明日も畑を耕せるだろうか、ということだけだった。
次の朝、ガルドは何も言わずに俺の枕元に一組の手袋を置いていた。
使い古された革の手袋。指の関節部分は擦り切れて薄くなり、手のひらの部分は長年の使用で持ち主の手の形にぴったりと馴染んでいる。きっとガルドが若い頃——まだこの村にたった一人で来た頃に——使っていたものだろう。
俺は礼を言う代わりに、手袋をはめて鍬を握った。
痛みはまだ残っていたが、昨日より確実にマシだった。水膨れは潰れて固くなり始め、新しい皮がその下でできつつある。何より——鍬の柄を握る角度が、少しだけわかってきた。力任せに振り下ろすのではなく、腰の回転で土を起こす。ガルドの動きを昨日一日、隣で眺めて、無意識に体が覚えていたらしい。
五日が過ぎ、一週間が過ぎた。
体は畑仕事に慣れ始め、手のひらには硬いタコができつつあった。不思議なことに気づき始めたのは、それからだった。
俺が耕した畝から——芽吹きが早い。
ガルドが同じ日に同じ種を蒔いた隣の畝と比べて、俺の畝は明らかに半日か一日、発芽が早い。それだけではない。芽の伸びる速度も、葉の緑の濃さも、ほんの少し——だが確実に、違っている。
「……おかしいな」
ガルドが初めて、畑の前で足を止めて呟いた。顎に手を当て、俺の畝と自分の畝を何度も見比べている。それから俺の顔をじっと見て——何か言いかけて、口を閉じた。そのまま首をかしげながら小屋に戻っていく背中が、なんだか不思議で、少しだけ笑えた。
俺も理由はわからなかった。種の撒き方をガルドに教わった通りにやっただけだ。特別な肥料も入れていない。ただ——種を手のひらに乗せて土に埋める時、触れた土がほんの少し、自分の手の中で温かくなるのを感じていた。その熱が、種に伝わったのかもしれない。
(まあ、いいか)
深く考えても仕方のないことだった。それよりも——自分が耕した畝から芽が出た。その事実だけで、胸の奥がかすかに揺れる。図鑑でしか見たことのなかった「発芽」という現象が、自分の手のひらから起きたのだ。
そして、十日目の朝が来た。
俺はいつものように夜明けと共に目を覚まし、手袋をはめて畑に出た。朝霧が谷間全体を包み込み、遠くの山の稜線だけが溶けるような黄金に輝いている。冷たい空気の中、畑の土は昨夜の露を含んで黒く光り、足を踏み入れるたびにじゅっという音がした。
畝の端にしゃがみ込んで、土の表面を見る。
——あった。
小さな、黄緑色の双葉。まだ親指の先ほどの大きさで、土の重みに押しつぶされそうになりながらも、しっかりと空に向かって開いている。菜種の芽だ。俺が自分の手で蒔いて、毎日水をやって、雨の日は藁をかけて——育てた、最初の命。
「…………出た」
声が震えているのを自覚した。たかが菜種の芽だ。畑の住人なら毎年春に何百本も目にする、ありふれた光景。でも——これは、俺が生まれて初めて。俺の手から生まれた。
(俺にも——できることがあるんだ)
霧がゆっくりと晴れ始めた畑の真ん中で、俺は菜種の芽を見つめながら、その場から動けずにいた。土に触れていた指先が、芽と同じようにわずかに震えている。それを隠すように、もう一度だけそっと芽の周りの土を撫でた。指の腹で優しく——傷つけないように、でも確かめるように。
小屋の戸口に、いつの間にかガルドが立っていた。腕を組み、黙ってこっちを見ている。何も言わなかった——言わないのが、この人の流儀だった。
でも——皺だらけの口元が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
気のせいかもしれない。年のせいで顔の筋肉が緩んだだけかもしれない。でも——気のせいじゃないと、俺は思いたかった。
菜の花が咲くのは、まだずっと先だ。それに、この小さな芽が無事に育つかどうかもわからない。これから虫に食われるかもしれない。嵐に倒されるかもしれない。俺の未熟な世話では、枯らしてしまうかもしれない。それでも——
(今日から、俺は——ここで生きていく)
頭のどこか遠くで、あの声が聞こえた気がした。「お前はヴァンデルト家の恥だ」——あの声は、まだ消えていない。これからも何度も夢に出てくるだろう。多分ずっと、消えない。でも、少なくとも。
この畑の前では——俺は、俺でいられる。それだけで、今は十分だった。
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