3話 見知らぬ土地で
3話 見知らぬ土地で
行商人の荷馬車は、東へ東へと進み続けた。
幌の隙間から見える景色は、王都の周りに広がる整然とした麦畑から、だんだんと荒れた丘陵地帯へと変わっていった。石の多い痩せた土地。まばらな灌木が風に揺れ、時折、遠くの丘の上に羊の群れが見えるだけの寂しい風景。空だけがどこまでも高く、雲が速い速度で流れていた。見知った王都の景色はもうどこにもない。
俺は空の木箱の陰に身を潜めたまま、膝を抱えていた。馬車が石を踏むたびに荷台が跳ね、硬い木の床が直接背骨に響く。腹の奥から空腹が這い上がってくるが、銅貨を使う勇気はなかった——革袋の中身はこれが最後の金だ。食料を買ってしまえば、本当に何も残らなくなる。
(これを全部使い切ったら——その先は)
考えても仕方のないことを、頭の隅でぐるぐると繰り返していた。温かいベッドで眠ったのはいつだったか。最後にきちんと食事をしたのはいつだったか。
何度目かの揺れで、俺はうとうとと眠りに落ちていたらしい。夢を見た——夢の中ではまだ、自分はヴァンデルト家の三男だった。書庫の窓から春の日差しが差し込み、エドガー兄上が隣で魔法書をめくっている。そんなありふれた日常の夢。
気がつくと、馬車は止まっていた。
「——おい、ガキ」
頭の上から声が降ってきた。見上げると、御者の男が荷台の幌を開けて中を覗き込んでいる。四十がらみの、日焼けした痩せた顔。目尻に深い皺が刻まれている。眠そうだった目が、今はじっと俺を見据えていた。
「いつから乗ってやがる」
「……昨夜から、です」
正直に答えた。嘘をつく気力もなかった。男はしばらく黙って俺を見下ろし、それから深いため息をついた。怒っているのかと思ったが——その顔はむしろ、何かに困っているような表情だった。
「貴族の坊ちゃんか。……追放、だな。見りゃわかる。ここ数年、そういうのが増えた」
俺は何も言えなかった。男は、数秒だけ迷うような間を置いてから、御者台に戻った。馬車は再び動き出す。俺はまた木箱の陰に身を縮めた。
数分後、御者台から声が飛んできた。
「この先にカルドの村がある。俺はそこで一泊して、明後日には隣国へ向かう。お前は——そこで降りろ。これ以上は連れていけねえ。商売があるんでな」
「……ありがとう、ございます」
「礼なんていらねえよ」男の声にほんの少しだけ柔らかさが混ざった。「ただ——あんたみたいな坊ちゃんが、これからどうやって生きていくのか。俺にはわからねえがな」
俺にはわからねえがな——その言葉を、俺は心の中で何度も繰り返した。御者の男にすら想像がつかない未来を、俺はこれから一人で生きていかねばならない。
馬車はさらに半日、走り続けた。日が傾き始めた頃、街道はだんだんと狭くなり、両側に迫る山の斜面が近づいてくる。王都の周りにはなかった、荒々しい岩肌。空気が冷たく、薄くなっていくのが肌でわかった。
馬車が小さな集落の手前で止まった。石造りの低い家々が、谷間の斜面にへばりつくように建ち並んでいる。煙突からは数本の細い煙が立ち昇り、畑では数人の人影が鍬を動かしているのが見えた。王都からは想像もつかないほど小さな——地図にすら載っていないかもしれない村。
「カルドだ。ここで降りな」
俺は荷台から這い出た。長時間の同じ姿勢で足がしびれて、まともに立てない。よろめきながら地面に降り立つと、冷たい山の風が一気に体温を奪っていく。
御者の男は俺に何か言おうとして——やめた。代わりに、ポケットから乾パンを二つ取り出して、無言で俺の手に押しつけた。さっきより一つ多い。
「……元気でな」
馬車はすぐに走り去った。幌が街道の向こうに消えるまで、俺はその場に立ち尽くしていた。手の中の乾パンは、まだわずかに温かかった。
(元気でな——か)
見ず知らずの子供に、路銀も払わずに馬車に乗せてくれた行商人。たった一言の「元気でな」が、今の俺には不思議な重さを持っていた。
村の中に入ると、すぐに視線が集まった。
痩せこけた十二歳の子供が、貴族の服——泥と雨で汚れきってはいるが、明らかに上等な生地の服——を着て、ふらふらと歩いている。村人たちは畑仕事の手を止め、井戸端で洗い物をしていた女たちはひそひそと顔を見合わせた。子供たちは物珍しそうに俺の後ろを少しだけついてきて、母親に呼ばれて慌てて家に駆け戻っていく。
「なんだありゃ」「貴族の子だろ。なんでこんなとこに」
聞こえているのかいないのか、そんな小声が風に乗って届く。王都の貴族たちの嘲笑とは違う——これは単純な好奇と警戒だ。見たことのない生き物が突然現れたような、そんな目。
俺は一番近くにいた——干し草を束ねていた初老の男——の前に立った。
「すみません。一晩、泊めていただけませんか」
男は俺の顔と服をしげしげと眺めてから、無言で首を横に振った。指で、村の出口の方を示す。
「悪いね。うちには余裕がない」
隣の家。その隣。どこでも同じだった。どの家にも「余裕」はなく、どの大人も一瞥しただけで視線を逸らした。
(ここでも——誰も)
王都の旅籠と同じだ。服がどうであれ、後ろ盾のない子供は、どこでも迷惑な余所者でしかない。十二年の貴族生活で、俺は「貴族にとって家名こそが全て」だと教えられてきた。今——その教えの裏側を、思い知らされている。
(家名を失った人間は——人間としても扱われないのか)
それでも村の中をもう少し歩いた。他に選択肢がなかったからだ。足はもう限界で、どこかで休まなければ今夜を越えられない。その時——
空気が変わった。
冷たい風が谷間を吹き抜け、次の瞬間——白いものが、視界の端をかすめた。
雪だった。
四月の終わりだというのに、山間のこの村にはまだ冬の名残が潜んでいたらしい。雪はあっという間に強くなり、視界を白く塗りつぶしていく。村人たちは足早に家の中に消え、戸が次々と閉まっていく。
(…………ここまで、か)
体の芯から力が抜けていく。俺は村の入り口にある——半分壊れた納屋の軒下に、駆け込んだ。壁に背中を預けて、ずるずると座り込む。
凍える寒さが容赦なく襲ってきた。貴族の上等な生地は、見栄えはいいが防寒にはまったく向いていない。泥で固まった服が冷気をどんどん吸い込んで、肌に張り付く。指先はもう感覚がなく、吐く息だけがやけに白い。
空腹と寒さと疲労。三つが同時に襲ってきて、目蓋が重くなる。雪が靴先に積もっていくのを、どこか遠くの出来事のように眺めていた。
(このまま——眠ったら、楽になるんだろうか)
そんな考えがよぎった時。
「——腹は減ってないか」
声がした。
顔を上げると、すぐ目の前に老人が立っていた。いつからそこにいたのか、まったく気配を感じなかった。白髪交じりの無精髭。日焼けして深い皺の刻まれた顔。年齢は六十をとうに過ぎているだろう。背中はわずかに曲がり、手には使い込まれた鍬を握っている。農夫だ。どこにでもいそうな、きれいな服など一枚も持っていなさそうな——ただの、一人暮らしの年寄り。
俺が茫然と見上げていると、老人は無言で自分の外套を脱ぎ、俺の肩にかけた。
粗末な毛織物だった。擦り切れて、あちこちに継ぎ接ぎがある。長年の使用で毛並みは潰れ、土と藁と——微かに焚き火の煙の匂いが染みついている。でも——
それが、とても温かかった。
首元まで外套を引き寄せると、凍えていた指先にゆっくりと血が戻ってくるのがわかった。誰かが自分に何かを「かけてくれた」のは——何日ぶりだろう。いや、もしかするともっとずっと。屋敷にいた頃でさえ、誰もこんな風に俺の体を気遣ってはくれなかったかもしれない。
「……あ、りがとう」
かすれた声だった。まともに発音できたかどうかも自信がない。
「礼はいらん。腹は減ってるのか、どうなんだ」
老人の声には、同情も好奇もなかった。ただ——事実を確認しているだけの、淡々とした調子。そこに妙な安心感があった。
俺は小さく頷いた。
老人はそれだけ確認すると、何も言わずにくるりと背を向けて歩き出した。鍬を担ぎ直す仕草が、何十年も同じ動作を繰り返してきた者の動きだった。俺は外套を体に巻きつけるようにして掴みながら、ふらふらとその後ろをついていった。
雪が積もり始めた村の小道を、二人分の足跡が続いていく。老人の足取りは遅く、それがかえって俺にはありがたかった。
老人の家は、村の一番外れにあった。
木材と石を寄せ集めて建てたような、小さな掘っ立て小屋。屋根は波打った板で葺かれ、あちこちが苔で緑に染まっている。壁には隙間風を防ぐための藁が詰め込まれ、煙突からは細い煙が一本、灰色の雪空に向かって立ち昇っていた。
老人は黙って戸を開け、俺を中に入れた。
土間には囲炉裏が一つ。その上にかけられた黒い鍋から、白い湯気が立ち昇っている。部屋の隅には、使い込まれた農具が数本、壁に立てかけてあった。鍬、鎌、そして刃の欠けた鋤。それだけだ。棚には木の椀が二つと、塩の入った小さな壺。家具と呼べるものは何もなかった。
でも——温かかった。
囲炉裏の火が、狭い部屋全体を包み込むように暖めている。火の粉が時折パチリとはじけ、そのたびに壁に映る影が揺れた。
俺は囲炉裏のそばに崩れるように座り込んだ。凍えきった頬に火の熱がしみる。じんじんと痛むような感覚が、逆に「生きている」ことを教えてくれた。
老人は鍋からどろりとした粥を木の椀によそい、無言で俺の前に置いた。
麦粥だった。具は何も入っていない。ただの麦と水と、ほんの少しの塩だけ。色も悪いし、香りだって——ヴァンデルト家の食卓に出ていた料理とは比べ物にならない。でも、湯気の立ち昇るその匂いだけで、目の奥が熱くなった。
俺は椀を両手で持ち上げ、一口すすった。
熱い。舌がひりつく。でも——その熱さが、喉を通って胸に落ちていく。腹の底から、じんわりと広がる温かさ。
(…………うまい)
声には出せなかった。出したら——堰を切ったように何かが溢れてしまいそうで、怖かった。ただ黙って椀を口に運び続ける俺を、老人は何も言わずに囲炉裏の火をいじりながら見ていた。
彼は自分の椀には粥をよそわなかった。棚の上の椀は、俺が使っているものともう一つの二つだけ。そのもう一つを、老人は使わなかった。
(——この人も、余裕があるわけじゃないんだ)
麦粥一人分の余裕すらない生活。そのたった一人分を、見ず知らずの子供に差し出した。
俺が椀を空にすると、老人は立って鍋からもう一杯よそって、また俺の前に置いた。相変わらず何も言わない。
「……あんたは、食べないのか」
初めて自分から口を開いた。老人は少しだけ驚いたように俺を見て、それから「腹はふくれてる」とだけ言った。明らかに嘘だった。痩せた体に、農作業で日焼けした顔——この人は、いつも一人分の食事しか作っていない。
それでも俺は、二杯目の粥を口に運んだ。今度は——少しだけ、塩の味がわかった。
食べ終わって、椀を膝の上に置いた。火の灯りだけが頼りの部屋で、沈黙はちっとも苦にならなかった。むしろ——静かだった。久しぶりに、誰かに「見張られている」とか「値踏みされている」とか、そういう気配のない空間にいる。
雪が屋根を叩く音。囲炉裏の火の爆ぜる音。老人が火をいじる衣擦れの音。
そのどれもが、不思議と心を落ち着かせた。
どれだけ時間が経っただろう。火の勢いが少し弱まり始めた頃、俺は椀を床に置いて、顔を上げた。老人の顔を、初めてまっすぐに見た。囲炉裏の灯りに照らされた皺だらけの顔は、怖いとも優しいともつかない、ただの「老人の顔」だった。
「……ここに、いていいですか」
自分でも驚くほど静かな声だった。十二歳の子供が、見ず知らずの老人に乞う言葉としてはあまりに弱々しい。でも——それが精一杯だった。
老人は囲炉裏の火からゆっくりと顔を上げ、俺をじっと見た。濁った目が、何かを確かめるように細められる。
「畑を手伝うならな」
それだけ言って、また火に目を戻した。問い返さなかった。俺が誰で、どこから来て、なぜこんな村にいるのか——そんなことは何一つ聞こうとしなかった。
(——聞かないのか)
そう思った瞬間、胸の奥で固まっていた何かが、音もなく崩れた気がした。
俺はもう一度椀を持ち上げ、底に少しだけ残っていた粥を飲み干した。喉を通る最後のひとくちの熱さが、十二歳の春に出会った最初の「受け入れ」だった。
屋根を叩く雪の音と、囲炉裏の火の爆ぜる音。それ以外に何もない夜。贅沢も、約束も、安堵すらない。でも——少なくとも、今夜、俺はここで生きている。
それが——「ガルド」という名前を、まだ知らなかった俺が過ごした、最初の夜だった。
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