2話 誰もいない世界
2話 誰もいない世界
石の光が消えた後、俺はまた歩き始めた。
雨は小降りになったが、風はまだ冷たい。四月の夜の街道には、俺の靴音以外に何の音もない。時折、遠くの農家で犬が吠えたが、それだけだ。革袋の中で銅貨が鳴るたびに——三日分、と数字が脳裏で浮かぶ。宿の一泊にも満たない金額。それで俺は、これからどこでどうやって生きていくのか。
(考えても、仕方ない)
それでも足を止めるわけにはいかなかった。立ち止まったら——そのまま動けなくなる気がした。
二軒目の旅籠の灯りが見えてきた。王都の郊外に点在する、小さな木造の宿。一階の窓からは暖かそうな橙色の明かりが漏れ、中からは酔客の笑い声が聞こえる。俺は濡れた服の襟を直し、できるだけ貴族の子らしく振る舞おうと背筋を伸ばして、戸を叩いた。
「すみません、一晩だけ——」
「あいにく満室でね」
中から返ってきた声は素っ気なかった。戸は開きもしない。俺はしばらくその場に突っ立っていたが、中からはもう何の反応もなかった。
三軒目。今度は女将らしき中年の女が顔を覗かせた。彼女は俺のずぶ濡れの服と、傍らに馬車も召使いもいない様子を見て、眉をひそめた。
「悪いけど、うちはお貴族様のお相手はしてないんだよ」
「一晩でいいんです。お金なら——」
「三日分の路銀でしょ。見ればわかるよ。そういう坊ちゃん、珍しくないからね」
戸がぴしゃりと閉まる。雨の滴が軒から落ちて、肩に当たった。
(そうか。俺だけじゃないのか)
同じように追放された貴族の子は——他にもいるのかもしれない。家名を守るために切り捨てられた、誰かの息子や娘が。今の俺と同じように、この街道を歩いた者が、過去に何人も。
使い古された同情だった。それでも——自分だけではないという事実が、ほんの少しだけ胸の奥で灯った。
街道を外れて、麦畑の中のあぜ道に入った。
どこに行くのか、自分でもわかっていなかった。ただ、人目が少ない方へ。誰にも見られずにいられる方へ。足が勝手に向かっていた。畑の若葉が、風が吹くたびに銀色の波のように揺れている。月明かりだけが頼りの暗がりの中、俺は畑のほとりで膝をついた。
そこは、さっき泣いた場所から、さほど遠くなかった。
膝の力が抜けると同時に、体全体が泥の上に崩れ落ちた。濡れた土の冷たさが服を通して肌に滲みる。指先はかじかんで、まともに曲げることもできない。腹の底から空腹が這い上がってきて、喉が——声にならない声を絞り出した。
(なんで——俺が)
三歳の頃から、休まずに魔法の基礎訓練を続けてきた。兄たちが裏庭で木刀を振り回している時も、俺は書庫に籠もって魔法理論の本を読み漁った。七歳で書庫の蔵書の半分を読破し、十歳で初級魔法陣を全て暗記した。マクシミリアン兄上の火魔法が「天才のひらめき」なら、俺のそれは「凡人の積み重ね」だった。
だが凡人は凡人なりに、いつか魔法学院で正式に学び、兄たちと肩を並べる日を夢見ていた——そのために、千日をかけてきたのだ。
その全てが——水晶球の針一つで、なかったことにされた。
「ぜ、んぶ……ぜんぶ、ムダだった」
声が震える。涙がまた溢れた。雨と一緒に泣いたさっきとは違う。今度は乾いた嗚咽だった。腹の底から搾り出すような、喉が張り裂けるような——枯れた泣き方。涙は出ても、もう声にならない。
(誰も——引き止めてくれなかった)
父は俺を「恥」と呼んだ。マクシミリアン兄上は口元を歪めていた。昼まで一緒に書庫で本を読んでくれたエドガー兄上は——何も言わなかった。
何も言わなかった。それが、一番こたえた。
(父上だけじゃない。兄上たちも、執事も、使用人たちも。俺のことを——最初からいなかったことにした)
十二年。同じ屋根の下で過ごした十二年の家族が、誰一人として俺の味方ではなかった。俺の存在そのものを、全員が最初から「なかったこと」にしていた。
麦畑の土に指を突き立てた。泥が爪の間に入り込む。湿った土の冷たさが、かじかんだ指先にしみる。四月の土はまだ冬の名残を抱えていて、触れるたびに冷気が骨の芯まで届くようだった。
——なのに。
「……」
掌で包み込んだ土の芯が、かすかに熱を帯びている。冷たい表面のすぐ下で、確かな温度が脈打っている。まるで——土そのものが静かに息をしているような、ゆっくりとした鼓動。
俺は慌てて手を離した。泥のついた掌を、月明かりに透かして見つめる。何の変哲もない、十二歳の子供の手だ。
もう一度、今度はゆっくりと土に触れた。
冷たい。でも——
「……温かい」
声に出したら、その言葉がやけに響いた。誰に聞かせるでもない、自分だけのための言葉。
魔法じゃない。魔力でもない。魔法学院の教科書に載っている『四大元素基礎理論』にも、『魔力循環の原理』にも、こんな現象の記述はどこにもなかった。これは、説明できないものだ。ただ——大地が俺にだけ「返事」をしている。そうとしか思えない感覚だった。
(気のせい、なのか)
気のせいだろうと思いながらも、俺はもう一度土を握った。今度は離さなかった。冷たい雨上がりの夜。誰もいない麦畑のほとりで、十二歳の俺は——泥だらけの手で、初めて自分だけの「何か」を掴んでいた。
その夜は、麦畑のほとりで明かした。
夜明け前、東の空が白み始める頃に目が覚めた。体はすっかり冷え切っていて、指先の感覚が戻るまでしばらくかかった。服はまだ湿っていて、肌に張り付いて気持ち悪い。空腹はもはや鈍い痛みに変わっていたが、不思議と頭の中は妙に冴えている。
(寝たのか、俺)
夢も見なかった。疲れ果てて、ただ泥の上に倒れていただけかもしれない。でも——不思議と、昨夜より少しだけ体が軽かった。
立ち上がろうとして、泥の中から石を一つ拾い上げた。昨夜、掌の中で光った——あの石だ。
朝の薄明かりの中で見ると、なんの変哲もない道端の石ころだった。灰色の表面に、石英の白い筋が一本斜めに走っているだけ。魔力を帯びている気配は微塵もない。魔力を「見る」訓練を千日積んできた俺の目にも、これはただの石にしか見えなかった。
でも——俺はそれを、革袋の中にしまった。
銅貨数枚の隣に、小さな石ころが一つ。変な取り合わせだったが、今の俺にはこれが全財産だ。
(道連れ、だ)
誰もいない世界で。名前を呼んでくれる人も、手を差し伸べてくれる人もいない世界で——この石だけが、俺に何かを返してくれた。
街道に戻ると、東の空が茜色に染まり始めていた。朝早くから行き交う荷馬車の列——王都に物資を運び込む商人たちの一団だ。馬の蹄の音と、御者たちのかけ声が、朝の冷たい空気に響いている。その中に、一台だけ——他の馬車とは逆向きに、東へ走る幌馬車があった。
幌には擦り切れた藍色の布が張られ、荷台には空の木箱が雑然と積まれている。王都で商品を売り尽くして、次の仕入れに戻る行商人の馬車だ。御者の男は眠そうな顔で手綱を握り、こちらのことなどまったく気にしていない。
俺は荷馬車が街道のぬかるみで速度を落とした一瞬を見計らって、荷台の隅に潜り込んだ。空の木箱の陰に身を縮め、膝を抱える。馬車がまた速度を上げ、路面の振動が直接、背骨に響いてきた。
行き先は——わからない。ただ、東へ。王都から最も遠い方角へ。
幌の隙間から、朝日に照らされた風景が流れていく。見慣れた王都の城壁が、どんどん小さくなっていく。あの壁の向こうに——俺が十二年過ごした屋敷がある。父が、兄たちが、今もいつも通りに朝を迎えている。
十二年——生まれてから一度も外に出たことのない街。今、こうして去っていく自分が、妙に遠い存在に思えた。
そのときだった。
俺の目の前で、革袋の口から——かすかな光が漏れている。
息を呑んだ。慌てて革袋を開けると、銅貨の隙間から、あの石がぼんやりと輝いていた。馬車の揺れる薄暗い荷台の中で、まるで小さな灯りを灯したように。
(やっぱり——気のせいじゃなかった)
手に取る。光は数秒で消えたが、今度ははっきりと確信があった。この石は、俺の手にだけ反応している。鑑定の儀で「ゼロ」と判定された俺の、誰にも見えない何かに。
(俺の——俺にしかない、何か)
希望——と呼ぶにはあまりにも小さな光だった。道端の石ころ一つを、ほんの数秒だけ光らせるだけの、使い道も理屈もわからない現象。でも——少なくとも、「ゼロ」じゃない。それだけは、確かだった。
俺は石を握りしめたまま、幌の隙間から外を見た。
見たこともない山の稜線が、朝日を受けて金色に輝いていた。険しい山肌と、麓に広がる深い森。王都の周りにはなかった、荒々しい自然の姿。どこに向かっているのかはわからない。何が待っているのかも、わからない。
でも——土は俺に応えた。石は俺の手で光った。
まだ終わっていない。
そう思ったら、不思議と涙は出なかった。かわりに、腹の底に熱い塊が一つ、確かに残っているのを感じた。
一方、同じ朝——ヴァンデルト伯爵家の二階。
マクシミリアンは誰もいない廊下を一人で歩いていた。
昨夜の雨はすっかり上がり、廊下の窓からは柔らかな春の朝日が差し込んでいる。だが屋敷の中は妙に静かだった。追放された三男の話題を口にする者は誰もおらず、使用人たちは皆、いつも通りに朝の支度を進めている——むしろ、いつもより几帳面に。何事もなかったかのように振る舞うことが、この家で最も求められる「正しさ」だった。
マクシミリアンは、無意識のうちにアレクの部屋の前で立ち止まっていた。
ドアは半開きだった。昨日の夕刻——アレクが出て行った後、執事が片付けを始めたまま、まだ終わっていないらしい。
中を覗くと、部屋はすでに半ば空っぽだった。壁一面を埋めていた魔法書の棚は、数冊を残して抜き取られている。『基礎魔力循環論』『四大元素の属性分類』——どれもアレクが何度も読み返していた本だ。背表紙の角が擦り切れている。寝る間も惜しんでページをめくっていたのだろう。
机の上には何もない——はずだった。
マクシミリアンは部屋に足を踏み入れ、ふと机の隅に目を留めた。
そこに、小さな鉱石の欠片が一つだけ、置き去りにされていた。
澄んだ石英の結晶。親指の先ほどの大きさで、朝日に透かすと内部に虹色の光が閉じ込められているのが見える。誰の目にも価値のない——子供の玩具のような石ころ。だがマクシミリアンには、それが何かすぐにわかった。
三歳のアレクが初めて魔力の練習に使った石だ。エドガーが誕生日にくれたやつだった。当時まだ五歳だった自分は、「そんなガラクタ、やるのかよ」と弟をからかった記憶がある。
指先で石を転がす。冷たい。この石に、まだアレクの指の痕跡が残っているような気がした。
(——なぜ、こんなものを)
追放された者が何を置いていくか。それは貴族の子なら誰でも理解していることだ。路銀以外の全ては、「お前には過ぎたものだ」というメッセージ。持ち主に不相応なものは、置いていく——それが作法だった。
だが、この石だけは違う気がした。アレクはきっと、この石を「過ぎたもの」だとは思っていなかった。ただ——持っていく理由を、見失っただけだ。
マクシミリアンは窓辺に歩み寄り、外を見た。使用人たちが中庭で馬車の泥を洗い落としている。父はすでに書斎に籠もり、領地経営の書類と向き合っている。朝食の席でも、アレクの話は一切出なかった——出す者は誰もいなかった。
「……これでいいんだ」
声に出してみた。
「才能値ゼロだ。ヴァンデルト家の未来に関われない。父親の判断は正しい。俺たちは——間違っていない」
誰に言うでもない言葉だった。誰もいない部屋で、自分に言い聞かせるための言葉。窓ガラスに映った自分の顔が、わずかに歪んでいるように見えたが——それも気のせいだろうか。
昨夜、なかなか寝つけなかった。理由は自分でもわからなかったが、何度も寝返りを打っているうちに、窓の外が白み始めていた。今朝も結局、誰よりも早く目が覚めて、こうして屋敷の中を歩いている。
マクシミリアンは石を机の上に戻した。捨てることはできなかった。さりとて、持ち帰る理由もない。ただ——元あった場所に、そっと置いただけだ。
部屋を出るとき、もう一度だけ振り返った。
何もなくなった机の上で、その石だけが朝日を浴びて、静かに虹を閉じ込めていた。
誰もいない部屋。誰も見ていない朝。
その石が何を語るのか——マクシミリアンには、まだわからなかった。
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