1話 才能ゼロの烙印
1話 才能ゼロの烙印
それが、俺の人生が終わった日だ。
十二歳の春。朝から張り詰めた空気の屋敷を出て、俺たちは馬車で王都の魔法学院へ向かった。窓の外には桜が散り始め、石畳に白い花びらが張り付いている。馬車の中、父ギルバートは一言も口をきかず、マクシミリアン兄上は窓の外を眺めながら小さく欠伸を噛み殺していた。エドガー兄上だけが、不安そうに俺のほうをちらちらと見ていた。
学院の大広間は、貴族たちで埋まっていた。壁一面に掲げられた歴代の優秀な魔法使いたちの肖像画。正面の壇上には、鈍く輝く魔力測定装置——成人の胴体ほどもある水晶球が、磨かれた台座の上で朝日を浴びている。
鑑定の儀。この国の貴族の子は、十二歳になると全員がこの水晶球に手を触れ、魔力の才能を査定される。才能値が高ければ高いほど、将来は約束されたも同然。先週、マクシミリアン兄上が火属性A級を記録した時、広間は歓声に包まれた。父は滅多に見せない笑みを浮かべていたのを覚えている。
「次——アレク・ヴァンデルト」
鑑定士の声に、俺は壇上へ足を踏み出した。
視線が刺さる。貴族たちの好奇と、父の厳しい目。エドガー兄上は指を組み合わせて俯いている。マクシミリアン兄上は、細めた灰色の瞳で俺を見ていた——まるで、結果をすでに知っているかのような目だった。
水晶球に手を置いた。
朝の冷えが、掌にしみる。磨かれた表面に、自分の歪んだ顔が映っていた。金色の髪と、緊張で強張った碧い瞳——生まれて十二年。初めて、他人の目を通して自分を見ているような気分だった。
鑑定士が、杖を掲げる。
「魔力測定を開始する」
一拍。水晶球が光を放つはずの沈黙。
二拍。
何も起こらない。
「……故障か?」
前列の貴族の一人が呟いた。鑑定士が眉を寄せ、杖を振り直す。三度目——水晶球の表面に一瞬だけ淡い光が走り、そしてすぐに消えた。計器の針は微動だにしない。
「魔力値——ゼロ」
広間がざわめいた。
父の顔が、目に見える速度で青ざめていく。普段は一切の感情を面に出さない男が、肘掛けを掴んだ指の関節だけは白くなっていた。マクシミリアン兄上は口元を歪めて——それが笑みなのか軽蔑なのか、十二歳の俺には判別がつかなかった。ただ、その目には弟を案じる色が微塵もないことだけは、はっきりとわかった。
「再測定を」
自分の声が、遠くから聞こえるようだった。
鑑定士は四度、五度と測定を繰り返した。広間は静まり返っていたが、後ろの方からは抑えきれない嗤い声が漏れ始めている。貴族の子息たちだ——先週、マクシミリアン兄上に歓声を送ったのと同じ連中が、今は俺を嘲笑っている。
「結果は変わりません」
鑑定士が杖を下ろした。
「才能値——ゼロです」
壇上の水晶球に手を置いたまま、俺は動けなかった。三歳から始めた基礎訓練。兄たちが遊んでいる休みの日も、書庫に籠もって魔法理論を読み漁ってきた。誰よりも早く起きて裏庭で魔力循環を練習し、誰よりも遅くまで元素の属性分類を暗記した。
その全てが——「ゼロ」の一言で、なかったことにされた。
「……アレク」
父が立ち上がった。重く、冷たい声。振り返るより先に、その言葉は大広間に響き渡った。
「お前はヴァンデルト家の恥だ」
ざわめきが一瞬で消えた。一斉に集中する視線。
「才能値ゼロの者に、当家に存在する資格はない。今日限りで出て行け」
父の灰色の瞳は、俺を見ていなかった。会場に並ぶ他の貴族たちを見据えて、これは「家名を守るための処分」だと宣言していた。当主としての、顔だった。
マクシミリアン兄上は、口元の歪みをさらに深めただけだった。
エドガー兄上は——口を開きかけた。栗色の髪の下で、俺と目が合った。何かを言おうとして、一瞬息を吸って。そして父の背中を見て、俯いた。
沈黙。
かつて「家族」だった三人が、誰一人として俺の味方ではなかった。
(ああ、そうか)
胸のあたりが、すうっと冷たくなった。
使用人に連れられて大広間を出る。廊下の石畳がやけに冷たい。壁一面に並んだ歴代当主の肖像画——初代から五代前までの全員が、じっと俺を見下ろしているようだった。追放される三男は、ヴァンデルト家始まって以来の「恥」なのだろう。
自室の前には、すでに執事が待っていた。
「お支度は——あちらに」
机の上。小さな革袋が一つ。手に取ると、中身は銅貨が数枚。重さでわかる——せいぜい三日分の路銀だ。着替えすら入っていない、ただの路銀だけの袋。
(装備は置いていけ、か)
父の口癖だった。貴族の子は、何を置いていくかでその価値が決まる——本人ではなく、持ち物の価値で。
俺は机の引き出しを開けた。一番奥に、小さな鉱石が一つ。三歳の時、初めて魔力の練習に使った石。澄んだ石英の結晶で、朝日に透かすと中に虹が閉じ込められている——かつてエドガー兄上が、俺の誕生日にくれたものだった。今となっては、思い出の欠片にすらならない。
棚に並んだ魔法書の背表紙を指でなぞる。『基礎魔力循環論』『四大元素の属性分類』『初級魔法陣の描き方』——どれも、俺が千日をかけて読み込んできたものだ。ページの隅に走り書きした自分の字が、遠い昔の遺物のように見えた。
(才能ゼロ)
指を離した。
部屋を出る時、廊下の窓から中庭が見えた。そこには、馬車の準備をする使用人たちの姿。彼らは俺と目が合うと、一瞬動きを止めて、それから慌ててカーテンを閉めた。
使用人さえも——関わりたくなかったのだろう。追放される三男に同情の一つでも見せれば、自分たちの立場が危うくなる。
誰も引き止めなかった。
十二年過ごした正面玄関を出ると、春の空気が妙に冷たかった。夕刻前の西日が、屋敷の巨大な影を地面に長く伸ばしている。振り返ると——故郷が、そこにあった。灰色の石壁、尖った屋根、二階の窓。あの窓の奥に、俺の部屋がある。もう二度と戻れない、俺の部屋。
カーテンが揺れた気がしたが、気のせいだった。気のせいだと思うことにした。
(振り返るな)
俺は踵を返した。靴音だけが、石畳にやけに響く。
ヴァンデルト伯爵家の門が、背後で重く閉まる音。その響きが、耳の奥にいつまでも残った。
街道に出てから、どれだけ歩いただろう。
気がつくと、西日はとっくに山の向こうに沈み、代わりに冷たい雨が降り始めていた。四月の雨は柔らかいものだと思っていたが——今夜のそれは、鋭く頬を刺す。舗装されていない街道の土はぬかるみ、一歩ごとに靴が泥に沈んだ。
王都から伸びる街道には、旅籠の灯りが点々と見えた。一軒目。戸を叩くと、中から顔を覗かせた主人が、俺を上から下まで眺めて——鼻で笑った。
「坊ちゃんの道楽かね。他所を当たってくれ」
二軒目。三軒目。どちらも同じだった。貴族の服を着てはいるが、馬車も召使いもいない十二歳のガキ——誰の目にも、まともな客には映らないのだろう。
雨はますます強くなる。服はずっしりと水を含んで重くなり、革袋の中で銅貨が歩くたびに鳴った。三日分の路銀。宿の一泊にも満たない三日分の金が、今の俺の全財産。
(これで——宿にも入れないのか)
どれだけ歩いたか覚えていない。気がつくと、街道の脇に広がる麦畑の畔で膝をついていた。
そこには誰もいなかった。雨に打たれた麦の若葉が風に揺れているだけ。土と若草の匂いが鼻を突く。冷たい雨粒が、首筋を伝って背中に落ちていった。
俺は——声を上げて泣いた。
十二歳の春の夜、誰もいない麦畑の隅で。誰にも聞かれないとわかっているからこそ、喉の奥に押し殺していた何かが全部、溢れてきた。声が嗄れるまで泣いて、涙と雨の区別もつかなくなって、俺は地面に手をついた。
泥にまみれた指先が、土の感触を拾う。冷たい。四月の土はまだ冬の冷たさを残している。でも——
(……温かい?)
手のひらの下で、土の芯がかすかに熱を帯びているような気がした。気のせいかもしれない。雨に打たれて感覚がおかしくなっているだけかもしれない。
でも俺は、そのかすかな温度にしがみついた。誰の手でも、誰の声でもない。ただ「大地」というものが——俺を受け入れてくれた。そんな気がした。
夜が更けるまで、俺は麦畑の畔に座っていた。
服はずぶ濡れで、体の芯まで冷え切っていた。指先の感覚はもうなくなりかけている。声は涙で枯れて、目蓋は腫れて重い。革袋の中の銅貨が、風に揺れるたびにかすかに鳴った。
立ち上がろうとして、傍らにあった石に手をついた——
その瞬間。
掌の中の石が、光った。
いや、「光った」という表現は正確じゃない。それは、闇の中で蛍が一匹だけ羽を震わせるような、あまりにもかすかで、でも確かな光。ただの道端の石が、ぼうっと鈍く輝いている。
俺は濡れた手で石を拭い、まじまじと見つめた。ただの石ころ。魔力を帯びている様子はない。そもそも——才能値ゼロの俺の手が触れたところで、何かが起きるはずがないのだ。
数秒の後、光は消えた。
(……気のせいか)
雨の水滴に星明かりが反射しただけだろう。そう思うことにした。そう思わなければ、今の俺にはどうすることもできなかったからだ。
俺はその石を、無意識に握りしめたまま立ち上がった。
行き先は、決まっていない。ただ、東へ——王都から最も遠い方角へ。雨は小降りになり、雲の切れ間から月が覗き始めている。濡れた麦畑が月明かりに照らされて、銀色の波のように揺れていた。
街道の闇の中へ消えていく俺の背中を、誰も見ていなかった。
でも——
もし誰かが見ていたら、気づいたかもしれない。
握りしめた掌の隙間から、かすかな光が、もう一度だけ漏れていたことに。
それが、俺の「ゼロ」じゃない力の——最初の兆しだった。
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