1話 静かな違和感 「氷のキャプテンが、俺だけを逃がさない」

氷のキャプテンが、俺だけを逃がさない2026-05-12 13:50:39

1話 静かな違和感 「氷のキャプテンが、俺だけを逃がさない」

体育館に、バッシュが床を擦る音がこだまする。ギュッ、ギュッ——ゴム底がフロアを噛むたびに、短く鋭い反響が天井へ吸い込まれていった。
「よし、もう一本!」
声を張ると、一年の田中が勢いよくドリブルを始めた。四時を過ぎた体育館の空気は、汗と床ワックスの匂いがむっと絡み合って、喉の奥にまでまとわりつくようだ。蛍光灯の白っぽい光が、磨き込まれた床にぼんやりと反射している。いつもの放課後だった。
「佐藤先輩、パスお願いします!」
「おう」
軽く返して、ボールを弾ませる。副キャプテンとして部を回すのにも、ずいぶん慣れた。もともと面倒見は悪くない方だと思うし、ここの部員たちは素直で、空気が読みやすい。
ふと顔を上げた。
反対側のゴールで、蓮がひとりシュートを打っている。ボールが弧を描き、リングをくぐるたびに、ネットが小さく跳ねた。パサッ——。次のボールを拾って、また打つ。拾って、打つ。その繰り返しが、妙に正確で、無駄がなかった。まるで呼吸をするみたいに。
(相変わらず無口だな、あいつ)
キャプテンの高橋蓮とは、一年の頃から同じクラスだ。もう二年の付き合いになる。クールというか、他人にそもそも関心がなさそうなやつで——でもバスケの実力だけは誰もが認めている。だからこそ、文句を言う部員はいない。俺も含めて。
すぐに練習へ意識を戻した。
——だが。
ドリブルを続けながら、背中にチリリとした熱が走った。
刺さるような、重い視線。冷たいのに、焼けつくような違和感。
振り返った。
コートサイドに立つ蓮が、無表情でこちらを見つめていた。手にはボールを抱えたまま、微動だにしない。照明の下で、その瞳だけがやけに静かに光っている。感情を映すというより、すべてを吸い込んでしまうような闇の色だった。
「……どうした?」
声をかける。一拍の間。
蓮はゆっくりと目を逸らした。
「……別に」
低くて、掠れている。たった二文字なのに、やけに耳の奥に残る声だった。
(気のせいか)
ドリブルを再開する。気にしすぎだ。キャプテンはいつも全体をよく見ている。副キャプテンの動きを確認するのだって、当然の役目だろう。うん、そういうことだ。
だが、そのあとだった。
パス練習でラインに並んだとき、隣に来たのが蓮だった。
距離が——妙に近い。
肩が触れそうな位置で、蓮は何も言わずに立ち止まった。ユニフォーム越しに、ほんのわずかな体温の気配を感じる。
「……キャプテン?」
蓮は答えない。ただ、俺の手元をじっと見つめている。俺がパスを出すたびに、蓮の気配がすぐ横にあった。耳元を、ひやりとした息がかすめていく。汗で湿った首筋が、そのたびにひそかに粟立つ。
(近すぎねえか……?)
一瞬、そう思った。でも——違う。キャプテンは真面目な性格だ。部員のフォームを細かくチェックしているに決まっている。そう自分に言い聞かせて、俺は練習を続けた。
休憩の笛が鳴った。
へとへとになってベンチに腰を下ろす。太ももの裏に、床で擦った熱がまだ残っている。そこへ、田中が駆け寄ってきた。ぱあっと笑顔を見せて、無造作に俺の肩を叩く。
「佐藤先輩、今のシュートすごかったっす!」
「おう、ありがとな」
笑顔で返す。田中は人懐っこいというか、遠慮がなくて明るいやつだ。後輩に慕われるのは、素直に悪くないと思う。
そのとき——
コートサイドで水を飲んでいた蓮の手が、ぴたりと止まった。
ペットボトルを握る指が、ほんの少しだけ強張る。細められた視線の先にあるのは——俺の肩に置かれた、田中の手。表情はほとんど変わっていないのに、眉のあたりにだけ、薄い影が落ちた。
息を呑むような、一瞬の静けさ。
……なんだ?
俺は一瞬だけ首を傾げかけた。しかしすぐに、田中の明るい声が耳に入ってきて——それで終わった。
さらに数分後。別の部員が「佐藤先輩、タオルっす」と俺にタオルを投げてよこした。受け取ろうとした、まさにそのタイミングで。
蓮が無言で立ち上がった。
そして——俺と田中の間を、すり抜けるように通り過ぎた。壁が滑り込むみたいに、自然に、でも強引に。部員同士の距離とは思えないほど、その身体は俺のすぐ横を通っていった。ユニフォームの布擦れの音すら聞こえてきそうな近さで。
(あ、キャプテンも休憩終わりか)
それだけだ。俺は何も気づかなかった。
練習再開後の体育館は、異様に静かだった。
もともと蓮は口数が少ない。それでも、練習中は短い指示や声掛けくらいはあるのが普通だった。だのに——休憩明けから、蓮はひと言も発していない。
ただ黙って。ドリブルをし、パスを裁き、シュートを打つ。
その沈黙が、体育館全体の空気をじわじわと押しつぶしていくようだった。湿度が上がっていくみたいに、重く、息苦しく。
ギュッ、キュッ、タン——
バッシュの音だけがやけに耳に残る。その反響が、鼓膜のすぐ裏で鳴っている。
気づくと、俺は無意識に蓮の動きを目で追っていた。
シュートを打つときの、あの無駄のないフォーム。ボールをリリースする指先のライン。首筋を伝って流れ落ちる汗の雫が、白い照明の下で淡く光っている。汗で濡れた肌が、動くたびにチカチカと輝いて——
ドクリ。
心臓が、一際大きく鳴った。
(……すげえ集中力だな)
俺はそれを、憧れだと自分に言い聞かせた。スポーツ選手として、純粋に尊敬しているだけ。そうだ、ただの憧れだ——そうやって頭の中で何度も重ねて、胸の奥のよくわからない熱を押し込めた。
ふと、蓮が顔をこちらに向ける。
視線が絡んだ。
コンマ数秒の、静かな交錯。
蓮の口元が——ほんの少しだけ、緩んだような気がした。
(いや、気のせいだ)
すぐに目を逸らす。あの無表情のキャプテンが、よりによって俺にだけ笑いかけるわけがない。そうだろう。そうに決まっている。
練習終了。
いつもなら真っ先に体育館を出ていく蓮の姿が、どこにもない。とはいえ、用具の片付けがある俺は気にしなかった。ボールをカゴに戻し、モップをかける。汗とワックスが混ざった床が、かすかにきしむ。照明のスイッチへ歩いていく——誰もいなくなった体育館で消灯をするのは、いつもの俺の役目だ。
パチリ。パチリ。
ブレーカー式のスイッチをひとつずつ落としていくたびに、空間が暗く狭まっていく。蛍光灯の残光が、床に青白く滲んですぐに消えた。
最後の一灯に手を伸ばした、そのとき。
出入り口の暗がりに——人の形が見えた。
壁にもたれて、じっと立っている。
俺は息を呑んだ。指先が、スイッチから離れる。
蓮だった。
薄暗い中で、すうっと顔を上げる。その目が、やけに強く光っている。照明が落ちた体育館で、蓮の瞳だけが二つの灯りのように、俺を捉えて離さない。
「……遅い」
掠れた、低い声。たった一言。
それなのに——
ドクリ。
理由を、俺自身がまだわかっていない。蓮の声は低すぎて、空気を通さずに、直接身体の芯に響いてくるみたいだった。暗がりの中で光る蓮の目が、俺を逃がさない、と——そう言っている。
「え、蓮……? 待ってたのか……?」
自分の声が、わずかに震えているのを自覚した。体育館の冷えた空気のせいか、それとも。
蓮は答えない。
ただ、静かに俺を見つめている。深い沈黙。バッシュの反響も、ボールの跳ねる音も、もう何も聞こえない。聞こえるのは自分の鼓動だけだ。それが妙に速くて、耳障りだった。
次の瞬間——
蓮が、一歩、俺に踏み込んだ。
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