8話 次のステージへ「ツンデレキャプテンは人を褒めない。ただし俺には一言多い。」
8話 次のステージへ「ツンデレキャプテンは人を褒めない。ただし俺には一言多い。」
二十三時を回った練習室。モニターの青白い光だけが、静まり返った空間を支配している。
キーボードを叩く指は止まらない。画面に映るのは、明日対戦する強豪校——青陵学園の過去十戦分のデータ。セッターのトス傾向、エースの得意コース、ローテーションパターン。数字の羅列を追いながら、俺は無意識にタブレットの裏側へ指を滑らせた。
あの感触。まだそこにある。
「お前は大丈夫だ」
第三章。あの試合の前夜、不安で押し潰されそうだった俺に、キャプテンが残した付箋。たった一文のそれが、どれだけ俺の背中を押してきたか。
(あの頃は——本当に何もわかってなかったな)
データを並べるだけで精一杯で、自分の分析にすら自信が持てなくて。隣に座った人にどう話しかけていいかもわからず、沈黙の重さに潰されそうだった。
(でも、今は違う)
揃えた数字が、根拠のない自信じゃないと静かに告げている。積み重ねてきた分析が、確かな土台になっている。指先に自然と力が入る。昨日の帰り際、知らず握りしめていた拳と同じ熱が、まだここにある。
——ドアが開く音。
振り返る。当然のように、その姿はそこに立っていた。手にした二本の缶コーヒーを見て、俺の口元がほんの少し緩む。
(あの時と同じだ。でも——今回は驚かない)
来るって、わかってたから。
キャプテンは何も言わない。ただ真っ直ぐに歩いてきて、缶の一本を机に置いた。それから当然のように椅子を引き、腰を下ろす。
(あ、近い)
肩が触れるか触れないかの距離。第三章のあの夜、この人はもっと離れた場所に座っていたはずだ。今は——その境界線が、確実に狭まっている。
「相手のデータ、どこまで出てる」
自分から口を開いた。第三章では、何分も沈黙が続いた後で、俺の方が堪えきれずに説明を始めたのに。
「セッターのトス傾向と、エースの攻撃パターンまで。あとは——」
差し出したタブレットを、キャプテンが覗き込む。
「ここ」
指がモニターの一点を示した。
「相手セッターのトスの癖。バックトスに入る前に、必ず左足を半歩引く」
「——気づかなかった」
思わず声が漏れる。キャプテンは淡々と続けた。
「前のチームより読める。こっちのブロック、二枚で十分だ」
「でもエースの決定力の数値は高い。ブロックを薄くすると、そっちが危ない」
「ならお前のデータで、エースが打ちにくいコースを三パターン出せ」
「了解」
言葉のやりとりが、驚くほど自然に続いていく。第三章のあの夜——何を話せばいいかわからず、沈黙を埋めるのに必死だった時間が、遠い昔のことみたいだ。
(今は、普通に話せてる)
この人と同じ画面を見て、意見を交わして、作戦を詰めていく。それが当たり前のようにできる。それだけで十分すぎるほどだった。
キャプテンが缶コーヒーに口をつける。きっともう冷めているそれを一口飲んで、また画面に視線を戻す。モニターの光が横顔を淡く縁取っていて、昔なら気まずくて目を逸らしていたその距離が、今はただ——落ち着いた。
(これが、この人と俺の新しい距離なのか)
時計が零時を回る。
データの洗い出しはほぼ終わり、作戦の骨子が固まった。静寂の中で、互いの疲労が滲んでいる。どれだけ話し合っても、試合前のこの時間には独特の密度があった。
コトリ。
空になった缶を置く、小さな音。
その直後だった。
「……負ける気はしない」
——息が、止まった。
それまでのどんな言葉より、ストレートな確信だった。
第五章。「お前なら、拾える」。あれは俺個人への信頼だった。第七章。「……悪くない」。それは過去の結果への評価だった。どちらも俺の胸に深く刺さった言葉だけど——
今のは、違う。
過去形でも現在形でもない。未来への断言。チームとしての——俺たちとしての、勝利への確信。
(この人が、試合前に、こんなこと言うなんて)
第三章の「まあよかった」から始まった。第四章で「やれ」に変わり、第五章で「お前なら拾える」になった。第六章で「悪くなかった」、第七章で「悪くない」、そして「意味はそのままだ」で公になって——
そして今。
「負ける気はしない」
ここまで来たのか。
言葉にならない熱が胸の奥で渦を巻いている。気持ちを落ち着けようと缶コーヒーに手を伸ばしたけど、指先が微かに震えていて、上手く掴めない。
「……俺もです」
短く、そう返すのが精一杯だった。喉の奥が熱くて、それ以上は言葉にならなかった。
キャプテンは何も言わない。
でも——
その口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
今度は、背を向けていない。
正面から。そして、俺だけに向けられたそれ。
(今、確かに——正面から、俺だけに)
目を逸らさずに、受け止める。あの人がこんな顔をするのは、おそらく世界で俺だけだ。その事実が、何よりも俺を強くする。
喉の熱が、じわりと広がった。
翌朝。
試合会場へ向かうバスの中は、緊張と眠気が混ざった独特の空気に満ちていた。いつもより静かな車内。誰もがそれぞれの方法で、自分と向き合っている。
「あー、緊張するわ」
前の座席にもたれかかって高橋が呟く。隣の渡辺は大きな欠伸を噛み殺しながらスマホを睨み、田村は窓の外を無言で見つめている——微かに揺れる膝が、内心を物語っていた。
田中は一番後ろの席で目を閉じている。寝ているのか寝ていないのか。たぶん、後者だ。
俺は通路側の席で一人、タブレットを開いていた。昨夜のデータをもう一度なぞる。頭に入っているはずの数字を、指先で確認していく。隣の席は空いたままだった。
バスが発車する直前。
最後に乗り込んできたのは、キャプテンだった。
通路を進む足音。それが——
俺の隣で、止まった。
(——え)
一瞬の間。
何も言わずに、キャプテンは俺の隣の席に腰を下ろした。
思考が真っ白になる。自分から、隣に座った。初めてだ。これまでどんな場面でも、この人は必ず距離を取ってきた。一人で座るか、一番前の席か。いつだって俺たちからは離れた場所にいた。それなのに——
視界の端で、高橋が目を丸くしている。渡辺が慌てて口を押さえた。田村が一瞬だけ窓から視線を外して、すぐに戻す。田中は目を閉じたまま——でも、その口元がほんの少しだけ歪んでいる。
全員が気づいている。
誰も、何も言わない。でも、それが全てを語っていた。
(言葉はいらないんだな、きっと)
この距離が——今の俺たちの、答えだ。
キャプテンは目を閉じている。何も話さない。それでも、すぐ隣にいる気配だけで十分だった。
エンジンの振動が座席を通して伝わってくる。いつもより少しだけ鼓動が早い。でもそれを——嫌だとは思わなかった。
バスが停まる。
窓の外に、会場の威圧感が広がっている。前回の対戦校とは比べ物にならない規模。格上の強豪校——青陵学園の名が、大きな幟に掲げられていた。
全員が立ち上がる。緊張が一気に高まる瞬間。
キャプテンが立ち上がった。全員の前で、たった一言。
「行くぞ」
それだけだ。
でも、その声にはかつてない確信が滲んでいた。俺だけじゃない——バスに乗った全員が、それを感じ取ったはずだ。背筋が伸びる。自然と拳が固まる。
会場の扉が開く。光が差し込む。
(この戦いが終わっても——次がある。次の次もある)
キャプテンの背中を見つめながら思う。
(この人の隣で、何度でも戦う。それが——俺の選んだ道だから)
まだ、何も終わっていない。
まだ、始まったばかりだ。
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