8話 怖がっている暇がない「君が綺麗すぎて、怖がっている暇がありません」

君が綺麗すぎて、怖がっている暇がありません2026-05-08 16:29:09

8話 怖がっている暇がない「君が綺麗すぎて、怖がっている暇がありません」

第8章 怖がっている暇がない
数日後の午後——
窓の外には、春の陽光が差し込んでいた。
陽向はデスクに座りながら、ぼんやりとその光を見つめていた。蓮先輩からのメッセージ。今日の打ち合わせ、屋上で——とだけ書かれていた。
(なんだろう……)
最近の蓮先輩は、どこか変だった。いつもの厳格さはそのままに、時々陽向を見る目が、以前とは違う温度を帯びているような気がする。
「佐藤くん、お茶淹れるわよ」
同僚の声に、陽向は我に返った。
「あ、はい。お願いします」
そうして時刻が近づくにつれ、陽向の胸の高鳴りは収まらなかった。なぜだかわからない。ただの打ち合わせのはずなのに。
——屋上へ向かう足取りは、いつもより少しだけ速かった。
屋上の扉を開けると、そこには蓮がいた。
春風が彼の髪を揺らす。いつものスーツ姿だが、どこか背筋が伸びているように見えた。陽向は気づいていた。蓮先輩が緊張していることに。
「……来たか」
「はい。お呼び出しありがとうございます、蓮先輩」
陽向は明るく笑った。蓮の眉が、わずかに動いた。
(……この笑顔。いつも通りだ)
蓮は内心で苦笑していた。陽向は何も知らない。自分がどれだけ特別な存在なのかを。
「……話がある」
「はい、なんでしょう?」
陽向は無邪気に首を傾げた。その仕草が、蓮の決意を揺さぶる。
(……やめようか)
いや、もう引き返せない。蓮は深く息を吸った。何度も練習した言葉を、喉の奥で転がす。
「俺は——」
声が少し掠れた。蓮は眉をひそめた。自分の不甲斐なさに。
「……俺は、お前のことが」
陽向は待っていた。何を待っているのかわからないまま、ただ蓮先輩の言葉を待っていた。
「——好きだ」
風が止んだ。
陽向は、しばらく言葉の意味を理解できなかった。
「……え?」
「お前のことが、好きだ」
蓮はもう一度、はっきりと言った。普段の冷たさとは別の、どこか震えるような声で。
陽向の目が見開かれた。
「蓮、先輩……?」
「……変な顔をするな」
蓮はそっぽを向いた。耳が赤くなっているのを、陽向には見えていた。
(嘘だろ……)
陽向の頭の中が、真っ白になった。
蓮先輩が。鬼の黒崎が。自分のことを。
「……どうして、ですか?」
思わず出た言葉に、蓮は眉を上げた。
「どうして、とは?」
「だって、僕なんか……」
陽向は自分の胸に手を当てた。心臓が、今にも飛び出しそうな勢いで跳ねている。
「蓮先輩は、すごい人じゃないですか。完璧で、厳格で、誰もが尊敬する……」
「……お前」
蓮の声が、少し冷たくなった。
「それが、お前の答えか?」
「い、いえ、違うんです!」
陽向は慌てて手を振った。
「ただ、信じられなくて……。蓮先輩が、僕のような……」
陽向は初めて、蓮の「怖さ」を実感していた。
いつも厳しい言葉を投げかけてくる先輩。完璧主義で、誰も寄せ付けない雰囲気を纏う「鬼の黒崎」。そんな人が、自分を好きだと言っている。
「……怖い、です」
思わず漏れた言葉。
蓮の表情が曇った。
「……そうか」
「違うんです! 怖いのは、蓮先輩じゃなくて……!」
陽向は必死に言葉を探した。
「こんな人を好きになってしまった、自分が……!」
蓮の目が見開かれた。
「……なに?」
「だって、蓮先輩は綺麗すぎるんです。完璧すぎて……。そんな人を好きになったら、どうなっちゃうんだろうって」
陽向の声は、震えていた。
「落ち着け」
蓮は一歩近づいた。陽向の肩に手を置く。
「……お前が、俺を?」
「はい」
陽向は小さく頷いた。
「いつから、ですか……?」
「わかりません。気づいたら、もう」
陽向は苦笑した。
「蓮先輩が笑った時とか、優しい時とか……。あんなに怖い人なのに、時々見せるその顔が、僕は——」
言葉が詰まった。
「——好きなんです」
蓮は、息を呑んだ。
「……本当か?」
「はい」
「俺のことか?」
「はい。蓮先輩のことです」
陽向は真っ直ぐに蓮を見つめた。いつもの明るい瞳に、今は真剣な光が宿っていた。
「でも、怖いんです。蓮先輩は完璧で、厳格で……。そんな人を好きになったら、自分がどうなっちゃうか」
陽向は小さく震えた。
「……でも」
「でも?」
蓮の声が、かすかに上ずっていた。
陽向は深く息を吸った。そして、一言一句、噛み締めるように言った。
「それでもあなたが綺麗すぎて、怖がっている暇がありません」
風が、再び吹き始めた。
蓮は、しばらく言葉を失った。
「……なんだ、それ」
「え?」
「……意味がわからん」
蓮はそっぽを向いた。だが、その耳が真っ赤になっているのを、陽向は見逃さなかった。
「あ、あの……」
「……馬鹿」
蓮は低く呟いた。
「そんなこと、お前に言われるまでもない」
「……え?」
蓮は陽向の方を向いた。いつもの冷たい目ではなく、どこか柔らかな——それでも不器用な——眼差しで。
「俺だって、怖い」
「蓮先輩が、ですか?」
「お前を失うことが、怖い」
蓮は正直に言った。
「お前はいつも明るくて、誰にでも優しくて……。俺みたいな人間じゃ、とても釣り合わない。そんなこと、わかってる」
「蓮先輩……」
「でも、諦められなかった」
蓮は小さく笑った。不器用な、それでも確かな笑みを。
「……バカみたいだろ」
陽向は、目を潤ませていた。
「違います」
「……ん?」
「蓮先輩は、バカじゃないです。すごく、すごく——」
陽向は言葉を探した。
「かっこいい、です」
蓮の顔が、一瞬だけ緩んだ。
「……お前なあ」
「はい?」
「そういうこと、平気で言うよな」
「えへへ」
陽向は照れくさそうに笑った。
「……おい」
蓮は陽向の手を取った。驚く陽向を無視して、蓮は続けた。
「これからも、よろしく」
「……はい!」
陽向は、力強く頷いた。
二人の手は、春の陽光の中で繋がれていた。
——それから数日後。
「蓮先輩、これ承認お願いします!」
陽向は元気よく書類を差し出した。
「……何度も言わせるな。もう先輩ではないだろう」
蓮は眉をひそめながらも、書類を受け取った。
「えー、でも呼び慣れてて……」
「駄目だ」
「はーい……蓮さん」
陽向がそう言うと、蓮の耳がわずかに赤くなった。
「……その呼び方も、慣れない」
「じゃあ、どう呼べばいいですか?」
「……蓮でいい」
「蓮……さん?」
「『さん』はいらん」
「じゃあ、蓮?」
「……ああ」
蓮はそっぽを向いた。だが、口元は緩んでいた。
オフィスには、いつもの喧騒が戻っていた。打ち合わせの声、キーボードを打つ音、笑い声。
その中で、蓮と陽向は隣り合って座っていた。
「ねえ、蓮」
「……なんだ」
「今日、一緒に帰りませんか?」
蓮は、一瞬だけ逡巡した。
「……仕方ないな」
「えへへ、やったぁ」
陽向は満面の笑みを浮かべた。
蓮は呆れたようにため息をついたが、その目は優しさに満ちていた。
「……お前は、本当に」
「なんですか?」
「いや、なんでもない」
蓮は小さく首を振った。
窓の外では、春の光が燦々と降り注いでいた。新しい季節の始まりを告げるように。
二人の物語は、ここから始まる。
「鬼の黒崎」と呼ばれた完璧主義のディレクターと、明るく天然な新入社員。
かけ離れた二人が、手を繋いで歩き出す。
それは、まだ始まったばかりの——二人だけの物語だった。
「これからも、よろしくね。蓮」
「……ああ。こちらこそ」
春風が、二人の髪を優しく撫でた。
——怖がっている暇がない。
好きな人の隣にいられるだけで、それだけで十分だから。
これからの毎日が、楽しみで仕方なかった。
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