5話 残業と距離の縮まり「君が綺麗すぎて、怖がっている暇がありません」

君が綺麗すぎて、怖がっている暇がありません2026-05-08 16:28:47

5話 残業と距離の縮まり「君が綺麗すぎて、怖がっている暇がありません」

第5章 残業と距離の縮まり
午後十一時三十二分。
オフィスの蛍光灯が、ひとつだけ残された明かりを放っていた。
「……鈴木さん、本当に帰ったのか」
蓮は腕時計を確かめながら、眉をひとつ動かした。デスクの上には、鈴木美咲が急いで片付けたらしい資料が雑に積まれている。メモ用紙が一枚、最上面に置かれていた。
『ごめん! 急用で先に帰る! 二人で頑張ってね♡』
(……何の用事だ、いきなり)
蓮は無言でメモを破り捨て、ゴミ箱へ放り投げた。軽い紙の音が、静まり返ったフロアに響く。
「あ、鈴木さん、帰ったんですね」
陽向がトイレから戻ってきて、美咲の空いた席を見て首を傾げた。
「先輩、お疲れ様でーすって言いたかったんですけど……」
「いい。必要ない」
蓮は冷たく遮った。しかし内心では、小さなため息をついていた。
(また二人きりか)
今日で三度目だ。先週の深夜残業以来、妙に「二人きり」になる頻度が増えている気がする。蓮は単なる偶然だと頭では理解していたが、胸の奥で何かが騒ぐのを抑えられなかった。
(偶然だ。部署の人数が少ないだけだ。深く考えるな)
「黒崎さん、お茶淹れてきますね!」
陽向は何事もなかったように明るく言って、給湯室へ向かった。
蓮は再びディスプレイに向き直った。明日のプレゼン資料、まだ半分も終わっていない。焦燥が胸を締め付ける。
(終わらせなければ……終わらせて、早く帰らなければ)
しかし、今日はどうにも集中できなかった。隣で陽向が動く気配が、妙に気になってしまうのだ。
「はい、どうぞ!」
陽向が差し出したマグカップを、蓮は渋々受け取った。緑茶の香りが立ち昇る。
「……ありがとう」
思わず言ってしまった言葉に、蓮自身が驚いた。いつだって「必要ない」と言い放っておけばいいのに。
「えへへ、どういたしまして!」
陽向は無垢な笑顔で応えた。蓮は急いで視線を逸らし、キーボードを叩き始めた。
(……やめろ、変な気遣いをするな)
二時間が経過した。
蓮の肩は石のように硬くなっていた。長時間のデスクワークで、筋肉が悲鳴を上げているのがわかる。時折、首を回すと、小さく軋む音がした。
「……ん」
思わず小さくうめいた声を、蓮は慌てて飲み込んだ。
「黒崎さん、肩凝ってます?」
陽向が顔を上げた。
「……なんでもない。黙って作業しろ」
蓮は冷たく言い放ったが、陽向は動じなかった。逆に席を立ち、蓮の後ろに立った。
「マッサージ、しましょうか? うちのおばあちゃん、よく肩凝ってたんで、結構得意なんですよ」
「必要ない」
即座に拒否した。
「えー、でも黒崎さん、肩がこってますよ? ガチガチです」
「ガチガチではない。錯覚だ」
「じゃあ、触ったらわかりますって。ほら、こことか——」
陽向が蓮の肩に手を伸ばそうとした瞬間、蓮は身を引いた。
「触るな」
「痛いですか?」
「……違う」
(触られると、変な声が出るかもしれない)
蓮は内心で歯噛みした。こんなことで動揺する自分が、屈辱的だった。
「じゃあ、大丈夫なところでやりますよ。座ってください、黒崎さん」
「断った」
「三十分だけでいいですから。効かなかったらやめます、約束します!」
陽向の目は真剣だった。純粋な、誰かのために何かをしたいという気持ちが、あの大きな瞳から溢れている。
蓮は、そんな陽向を見て、思わず言葉を失った。
(……駄目だ。この目を見ると)
「……わかった。三十分だけだ」
「わーい! じゃあ、こちらへ!」
陽向は嬉しそうに、蓮を会議用のソファへ誘導した。
「失礼しますね——」
陽向の指が、蓮の肩に触れた瞬間、小さな電流が走ったような気がした。
「っ……」
「痛いですか?」
「……痛くない。黙って続けろ」
陽向の指は、蓮の予想を裏切るほど器用だった。こぶしのあたりをゆっくりと押し、凝り固まった筋肉をほぐしていく。適度な力加減で、まるで蓮の身体のことを熟知しているかのようだった。
「……下手くそだな」
蓮は意地悪く言った。
「えー、嘘でしょ? おばあちゃんは絶賛でしたよ?」
「年寄りの感覚と、私の感覚は違う。力が足りない」
「じゃあ、もっと強く——」
陽向が力を入れた瞬間、蓮は思わず声を上げそうになった。
(……くっ、強い)
「こ、これくらいなら……まあ、可もなく不可もなく」
「本当ですか? よかった!」
陽向の明るい声が、すぐ後ろから聞こえる。
その近さに、蓮は気づいていた。陽向は蓮の背中に近づき、両手で肩を揉んでいる。呼吸が髪を撫で、シャンプーの甘い香りが微かに漂ってくる。
(……近い。近すぎる)
蓮は正面を向き続け、目を閉じた。視界を遮れば、他の感覚が鋭くなる。陽向の体温が背中に伝わり、指の動きが余計に鮮明に感じられた。
「黒崎さん、意外と筋肉質ですね」
「……必要な発言か?」
「いえ、なんかかっこいいなって」
(かっこいい?)
蓮の心臓が、大きく跳ねた。陽向の無邪気な言葉が、蓮の胸の奥に突き刺さる。
「……無駄口を叩くな。作業に戻るぞ」
「まだ二十分ありますよ。もうちょっと——」
陽向の手が、肩から首筋へ移動した。蓮は全身の力が抜けそうになるのを必死で堪えた。
「……そこは、必要ない」
「ここも凝ってますよ。ほら、この辺——」
陽向の指が、蓮の首筋を撫でるように押した。甘い痺れが走り、蓮は思わず身を硬くした。
「……っ」
「あ、ごめんなさい! 痛かったですか?」
「……違う」
(気持ちいい。気持ちすぎて、危ない)
蓮は内心で呻いた。こんなに心地いいマッサージは、いつぶりだろう。誰かに触れられることなど、普段は苦痛以外の何物でもないのに。
「黒崎さん、リラックスしてください。肩が上がってますよ」
「……黙ってろ」
「はーい」
陽向は素直に従い、再び肩のマッサージに戻った。しかし、その手つきは以前よりも優しくなっていた。まるで、壊れ物を扱うように、丁寧に。
(……なんだ、この感覚は)
蓮は混乱していた。陽向の優しさが、蓮の堅い殻をじわじわと溶かしていく。拒否すべきなのに、受け入れてしまっている。
「陽向」
「はい?」
「……もう少し、続けてもいい」
自分でも驚くような言葉が、口から出ていた。
「え? いいんですか? 三十分過ぎちゃいますよ?」
「……黙って揉め」
「はいっ!」
陽向は嬉しそうに答え、再び指を動かし始めた。
蓮は、自分の言葉に耳まで熱くなっているのを感じた。
(……バカめ。何を言っているんだ)
しかし、陽向の手を止めようとはしなかった。
三十分が経ち、四十分が経った。
陽向は延長を申し出たが、蓮は「十分だ」と断った。本当はもっと続けてほしかったが、これ以上は危険だと直感が告げていた。
「ありがとう、陽向」
蓮はソファから立ち上がり、陽向に背中を向けた。熱い顔を見られるのが、恐ろしかったからだ。
「どういたしまして! 気持ちよかったですか?」
「……まあ、悪くなかった」
蓮は冷たく答えたが、内心では違った。
(最高だった。もっとやってほしかった)
「また凝ったら言ってくださいね。いつでもしますから!」
「……考えておく」
蓮はデスクに戻り、ディスプレイを覗き込んだ。しかし、画面の文字が頭に入ってこない。陽向の手の感触が、まだ肩に残っていた。
(……駄目だ。全然集中できない)
蓮は小さくため息をついた。こんなにも心が満たされる感覚は、いつぶりだろう。誰かの優しさを、こんなに素直に受け入れたのは。
(いや、素直に受け入れているわけではない。あくまで業務上の——)
言い訳をしようとして、蓮は自嘲的に笑った。
(嘘をつくな。もう、分かっているだろう)
蓮は、陽向に心を許している。厳格な「鬼の黒崎」の仮面を外し、ただの一人の人間として接している。それがどういう意味か、蓮にはもう理解できていた。
(……好きなんだ)
再び、確信が胸を満たす。
しかし、蓮はツンデレな態度を崩せなかった。崩せば、自分が崩れ落ちてしまいそうで恐ろかった。
「黒崎さん、そろそろ休憩しましょうか? お腹空きましたよね?」
陽向が提案した。
「……必要ない。終わらせてからだ」
「でも——」
「言ったはずだ。終わらせてから」
蓮は強い口調で遮った。陽向は「はあ……」とため息をつき、諦めたように自分の席に戻った。
(……すまない)
蓮は内心で謝罪した。陽向の気遣いを、素直に受け取れない自分がいる。
時折、陽向の方を盗み見る。陽向は黙々と作業を続けていたが、次第にまぶたが重くなっている様子だった。
「……陽向」
「はい……ん?」
返事が眠そうだ。
「眠いなら、帰れ」
「だ、大丈夫です。もう少し……」
陽向は無理に目を見開いたが、三十分も経たずに、頭がゆっくりと傾いていった。
「……すぴー」
小さな寝息が聞こえた。
蓮は息を呑んだ。
陽向はデスクに突っ伏し、完全に眠りに落ちていた。無防備な寝顔が、蓮の方を向いている。長いまつ毛が、穏やかな呼吸に合わせて微かに揺れている。
(……可愛い)
蓮は、思考が停止するのを感じた。
陽向の寝顔は、子供のように無邪気だった。普段の明るさはそのままに、安らかな表情を浮かべている。頬が少し赤くなっていて、触れたら暖かいだろうと想像できた。
(触れてみたい——)
蓮は、自分の手が勝手に動くのを感じた。陽向の頬に触れたら、どんな感触がするだろう。柔らかいだろうか。蓮の指先が震えた。
(……駄目だ。蓮、自制しろ)
蓮は必死で自制心を働かせた。しかし、目は陽向から離せなかった。あまりにも無防備な、その寝顔に、心が乱される。
(こいつは、本当に……)
蓮は小さく呟いた。
「……なんの警戒心もないのか」
当然だ。陽向にとって、蓮は「厳格な上司」でしかない。恋心など、微塵も感じていない。それを蓮は理解していたが、それでもこの時間が、愛おしかった。
蓮はそっと上着を脱ぎ、陽向の肩に掛けた。
「……風邪を引くなよ」
小声で言い放った言葉は、誰にも届かなかった。
「……ん、あれ?」
陽向が目を覚ましたのは、三十分後のことだった。
「寝てました……! ごめんなさい、黒崎さん!」
陽向は慌てて顔を上げた。肩から滑り落ちた上着に気づき、困惑した表情を浮かべる。
「あ、これ、黒崎さんの……?」
「……私のではない。勝手に着るな」
蓮は冷たく言ったが、内心では動揺していた。
(見られたか? 上着を掛けたところを)
「え、でも……」
「作業は終わった。帰るぞ」
蓮は無理やり話題を変え、パソコンをシャットダウンした。
「黒崎さん、寝てましたよね?」
陽向が不意に言った。
「……何?」
「今、上着を掛けてくれたの、黒崎さんですよね? ありがとうございます!」
陽向は無垢な笑顔で礼を言った。
「……違う。私は寝ていない」
蓮は強く否定した。
「えー、でも……」
「次はない。二度と寝るな」
「は、はい……」
陽向は申し訳なさそうに頭を下げた。
蓮は早々にバッグをまとめ、エレベーターへ向かった。陽向が慌てて後を追ってくる。
「黒崎さん、お疲れ様でした!」
「……お疲れ」
蓮は短く応え、エレベーターに乗り込んだ。陽向も隣に立つ。
閉じられた空間で、二人きり。
蓮は正面を向き、表情を崩さなかった。しかし内心では、小さな期待が膨らんでいた。
(また、二人で残業する日は来るだろうか)
(いや、来てほしくない。こんなに心が乱されるのは——)
(……来てほしい)
矛盾した思いが、蓮の胸を満たす。
エレベーターが止まり、ドアが開いた。陽向が軽く頭を下げて、外へ出た。
「じゃあ、黒崎さん! 明日も頑張りましょう!」
「……ああ」
蓮は短く応え、陽向の背中を見送った。
夜道を歩き去る陽向の姿が、街灯に照らされて小さくなっていく。
蓮は、それを見つめながら、自分の唇が緩んでいるのに気づかなかった。
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