4話 高橋の登場と焦り「君が綺麗すぎて、怖がっている暇がありません」

君が綺麗すぎて、怖がっている暇がありません2026-05-08 16:28:40

4話 高橋の登場と焦り「君が綺麗すぎて、怖がっている暇がありません」

第4章 高橋の登場と焦り
朝の会議室は、いつもよりも眩しい光に満ちていた。
窓から差し込む陽光が、磨き上げられたテーブルの表面を照らし、幾何学的な模様を描いている。蓮は腕を組みながら、その光景を無意識に眺めていた。
(……また、一緒に帰ろう)
先日の帰り道——陽向とコンビニで買ったおにぎりの味を、蓮は今でも鮮明に覚えている。鮭の塩加減が少し強めで、陽向は「黒崎さん、お茶飲みますか?」と無邪気に笑いかけてきた。
あの瞬間、蓮の胸の奥にあった何かが、ほんの少しだけ解けた気がした。
(進展がある。確実に、前より距離が縮まっている)
蓮は満足げに、誰にも気づかれない程度に唇の端を緩めた。
社内で「鬼の黒崎」と呼ばれる自分が、新入社員のアシスタントとの些細な会話を反芻して悦に入っている——どんな顔をすればいいのか、蓮自身にもわからない。
だが、悪い気分ではなかった。決して。
(今日も、あいつは来るだろうか)
蓮は腕時計をちらりと見た。会議開始五分前。陽向は必ず十分前には席に着く、律儀な男だ。きっとあと少しで——
「——おい、そこの君」
聞き慣れない声が、会議室の入り口から響いてきた。
蓮は眉をひそめて振り返った。
そこに立っていたのは、見慣れた顔だった。だが、普段は決してこちらのフロアに足を踏み入れないはずの男——高橋健太である。
「あ、はい!」
陽向の明るい声が応じる。
(——なぜ、陽向に?)
蓮の視線は、陽向から高橋へと移動した。高橋は三十歳。蓮と同期に入社したライバルで、クリエイティブディレクターとしての実力は認めるが、あの軽薄な態度と挑発的な物言いが、蓮にとっては百も承知の嫌いなタイプだった。
そんな高橋が、陽向に親しげに近づいている。
「君、佐藤陽向くんだったっけ?」
高橋の声はいつものように軽く、陽向に向けられた笑顔は屈託がない。だが蓮にはわかる——あの目が笑っていないことを。
「はい、そうです! あの、どちら様でしょうか?」
陽向は身じろぎもせず、無防備な笑顔を浮かべていた。
(この馬鹿……警戒心というものを持っていないのか)
蓮は内心で舌打ちをしつつも、思わず陽向の横顔に目を奪われる。
先輩社員に声をかけられても、陽向はいつものように真っ直ぐな目で相手を見上げている。朝日が彼の茶色い髪を柔らかく照らし、無邪気な笑みが無防備すぎて——
(……守ってやらないと、いけないな)
蓮ははっと我に返った。
(何を考えている。部下の管理は当然の責務だ)
蓮は咳払いをして、二人の方へ歩み寄った。
「高橋。こちらのフロアに何の用だ」
「おっ、黒崎じゃん」
高橋は蓮に向けて、挑発的な笑みを浮かべた。いつものように軽いタメ口で、蓮の苛立ちをあおる。
「別に用があるわけじゃないよ。ただ、最近噂の新入社員が気になってさ。見に来ただけ」
「……噂?」
陽向が不思議そうに首を傾げる。
「黒崎さんのお友達ですか?」
(——違う)
蓮の心臓が、一拍早く鼓動を打った。
高橋が笑う。あの笑顔が、陽向に向けられているのを蓮は確認した。
「まあ、仲良しってことでいいんじゃない? 同じ部署のライバル同士、なんてね」
高橋は陽向の肩に手を置いた。
その瞬間——
蓮の視界が、わずかに揺らいだ。
「陽向」
蓮は短く名前を呼んだ。
陽向は驚いたように蓮を見上げる。
「え? 黒崎さん、何か——」
「会議の資料を確認しておけ。今すぐにだ」
蓮は陽向の腕を取ると、無理やり引き寄せた。
「あ、はい! わかりました!」
陽向は素直に頷き、高橋から離れる。だが高橋は動じず、面白そうに二人を見つめていた。
「急かさなくてもいいじゃないか、黒崎くん」
高橋の声は穏やかで、しかし明らかに挑発を含んでいる。
「せっかく親しくなろうとしてたんだ。邪魔しないでくれよ」
「仕事の話だ。私情は関係ない」
蓮は冷たく言い放った。
陽向は二人の間を、困惑した目で見つめている。
「あの……黒崎さんが心配してくれるんですね!」
突然、陽向が明るく言った。
「先輩とお話ししてたら、会議に間に合わなくなっちゃうかもしれないって! 黒崎さん、優しいです!」
(——違う)
蓮の喉が詰まった。
「……心配じゃない」
蓮は短く言った。声が少し、いつもより高くなった気がした。
「指示だ。ただの、業務上の指示に過ぎん」
「へえ~、そうなんですか」
陽向は少し残念そうな顔をしたが、すぐにまた笑顔を取り戻した。
「でも、気づいてくれてありがとうございます! 黒崎さん、いつも気が利きますね!」
(この男は……)
蓮は陽向の純粋な笑顔を見つめて、言葉を失った。
自分の焦りも、高橋の挑発も、何も届いていない。陽向はただ、蓮の行動を「優しさ」として受け止めている。
それが、妙に胸を締め付けた。
「……さっさと席に着け」
蓮はそう言い残し、陽向を背中に押すようにして席へと向かった。
高橋が笑い声をあげた。
「ははっ、相変わらずだな、黒崎くん」
「黙れ。お前には関係ない」
「関係ない?」
高橋の目が、鋭く細まる。
「——いや、これから関係あるかもしれないね」
高橋は蓮の前に立ちはだかると、陽向の方へ視線を送った。そして、蓮の耳元に口を寄せ、囁くように言った。
「お前の部下、気に入ったよ」
(——っ)
蓮の全身に、電流が走った。
「……何のつもりだ、高橋」
「別に? いい男だなって思っただけさ」
高橋は肩をすくめ、軽く笑った。
「元気で素直で、可愛いじゃん。うちのチームに来ないかなー、なんて誘ってみようかと思ってね」
蓮の手が、無意識に握りしめられた。
「……無理な話だ。陽向は私の——」
言いかけて、蓮は言葉を飲み込んだ。
「私の」——何だ? 部下? 担当? それとも——
「ん? どうしたの、黒崎くん」
高橋が意地悪く笑う。
「珍しいじゃん。言い淀むなんて。お前、もしかして——」
「黒崎さん?」
陽向が二人の間で、小首を傾げていた。
「どうしたんですか? お二人とも、怒ってます?」
「……怒ってない」
蓮は短く言い、陽向の手を取った。
「行くぞ」
「え、あ、はい!」
蓮は陽向を背後に引き寄せ、高橋から遠ざける。
陽向は困惑した様子で、蓮の背中に隠れるように立っていた。
「黒崎さん……?」
「……手出しはさせない」
蓮は低く呟いた。
高橋に向けた目は、いつもの「鬼の黒崎」の冷厳な光を放っていた。
「陽向は私の担当だ。お前の手に、余る」
「へえ~」
高橋は感心したように口笛を吹いた。
「随分と必死じゃん。黒崎くん、あんたにしては珍しく感情出してるよ?」
「……黙れ」
「まあいいさ」
高橋は手を挙げて、引く姿勢を見せた。
「今回は見逃してあげる。でも、また今度——ね?」
高橋は陽向にウインクを送り、会議室を出ていった。
残された蓮と陽向。
会議室には、妙な静寂が流れた。
「……黒崎さん?」
陽向が、そっと蓮の袖を引いた。
「あの、怒ってるんですか? 僕、何か悪いことしました?」
蓮は振り返らなかった。
(……怒ってなどいない)
蓮は自分の手を見つめた。
今、高橋から陽向を引き離したその手が、わずかに震えていることに、蓮自身が気づいていた。
(あいつに触れられるのが……嫌だった)
陽向の肩に置かれた高橋の手。
あれが、気に入らなかった。不快だった。許せなかった。
(これは……なんだ?)
蓮は初めて、自分の感情に正面から向き合った。
部下を守る責任感? 先輩としての義務? いや——違う。
高橋が陽向に近づくのが嫌だった。陽向が他の誰かに笑いかけられるのが、耐えられなかった。
(……馬鹿な)
蓮は唇を噛んだ。
「……仕事に戻るぞ」
蓮は短く言い、陽向を尻目に会議室を出た。
その背中を、陽向が不思議そうに見つめていた。
——蓮の心の中で、小さな感情の種が、確かに芽吹き始めていた。
(……また、一緒にいたい)
蓮は誰にも聞かれない願いを、もう一度心の中で呟いた。
だが今、それは「仕事の指示」ではなく——
「黒崎さん、待ってください~!」
陽向の明るい声が、廊下に響く。
蓮は一瞬だけ、誰にも見られない微笑を浮かべた。
——焦りが、確かな恋心へと変わり始めていた。
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