3話 勘違いのランチ「君が綺麗すぎて、怖がっている暇がありません」

君が綺麗すぎて、怖がっている暇がありません2026-05-08 16:28:34

3話 勘違いのランチ「君が綺麗すぎて、怖がっている暇がありません」

朝の光が窓から差し込み、オフィスを淡いオレンジ色に染めていた。
黒崎蓮はデスクに向かいながら、無意識に視線を窓の外へやった。昇り始めた朝日がビルの谷間に輝いている。新しい一日が始まろうとしている——はずだった。
(……まったく)
蓮は小さく舌打ちした。昨夜のことが、脳裏から離れない。
窓の外を見ながら浮かべた、あの照れ笑い。自分があんな表情をしたのはいつ以来だろうか。いや、そもそもあんな表情をした記憶自体がない。
「黒崎さん、おはようございます!」
明るい声が背後から響いた。
蓮は慌てて表情を引き締め、振り返る。そこには満面の笑みを浮かべた佐藤陽向が立っていた。今日も相変わらずの元気さだ。制服のジャケットを少しだけ着崩し、ネクタイも緩めている。若者らしい、無防備な佇まい。
「……おはよう」
蓮は短く応じ、すぐにパソコンの画面に視線を戻した。
(落ち着け、黒崎蓮。ただの新入社員だ。部下だ。アシスタントだ)
心の中で繰り返し、自分に言い聞かせる。
だが、陽向がデスクの横を通り過ぎる時、ほのかに漂うシャンプーの香りが蓮の鼻腔をくすぐった。いつものものと違う、少しだけ甘い香り。
「あ、今日は新しいの使ってみたんです!」
陽向が気づいて、笑いながら言った。
「……何の話だ」
「だって、黒崎さん、すごく嗅いでましたよ?」
「してない」
「してましたよー。鼻がピクピクしてました」
蓮は眉をひそめた。自分の顔がそんな滑稽な動きをしていただろうか。
「……仕事に集中しろ。朝礼が始まる」
「はーい」
陽向は元気よく答え、自分の席へと向かった。
蓮は再び画面に向き合ったが、どうしても集中できない。視線が、自然と陽向の方へ向いてしまう。
陽向は周りの先輩社員たちと和やかに談笑していた。同期の新入社員とも気軽に話している。誰に対しても同じように明るく、素直に接する。職場の空気を和ませる、天然のムードメーカー。
(……あいつは、誰に対してもあんな笑顔なのか)
蓮はふとそんなことを考えてしまった。
昨夜、自分に向けられたあの笑顔は特別なものだったのだろうか。それとも陽向にとっては何でもない、日常の一部なのだろうか。
(馬鹿なことを考えるな)
蓮は頭を振った。
朝礼が始まり、蓮はチームのメンバーに簡潔な指示を出した。今日の撮影スケジュール、編集の締め切り、打ち合わせが必要なクライアントのリスト。
「以上だ。質問は?」
「はい!」
陽向が手を挙げた。
「何だ」
「黒崎さん、昨日はお疲れ様でした! 一緒に帰れて嬉しかったです!」
オフィス中の視線が一斉に蓮に集まった。
「……仕事中に私的な話をするな」
蓮は冷たく言い放った。
「あ、ごめんなさい!」
陽向は頭を下げたが、全く気にしていない様子だ。むしろ蓮の冷たい態度を面白がっているように見える。
(……なぜ、あいつは懲りないのだ)
蓮は内心でため息をついた。
朝礼が終わり、各々が仕事に戻る。蓮は自分のデスクに戻り、メールの確認を始めた。
だが、視線の端に陽向が気になる。
陽向は先輩デザイナーの鈴木美咲に何かを尋ねている。美咲は笑いながら陽向の肩をポンと叩いた。陽向も満面の笑みで応えている。
(……鈴木と、仲がいいのか)
蓮は自分でも気づかないうちに眉をひそめていた。
メールを打ちながら何度も陽向の方をチラチラと見てしまう。陽向が席を立つとどこへ行くのか気になってしまう。陽向が誰かと話すと何の話をしているのか気になってしまう。
(……集中できん)
蓮は自分の異常さに気づいていた。
普段ならこんなことでは動じない。新人が他の社員と仲良くしようが自分には関係ない。仕事ができればそれでいい。
だが今は違う。
陽向のことが気になって仕方がない。
(いけない。これではまるで……)
蓮は考えたくない結論に思考が近づいていることに気づいた。
「黒崎さん」
声をかけられ蓮ははっと我に返った。美咲が資料を持って立っていた。
「このデザインの確認、お願いできますか?」
「……ああ。後で行く」
「了解です。あ、そうだ」
美咲は少し声を潜めた。
「佐藤くん、なかなかやりますね。黒崎さんのアシスタント、大変だと思いましたけど、あの子なら大丈夫かも」
「……そうか」
「ふふ、意外と気に入ってるんじゃないですか?」
「馬鹿なことを言うな」
蓮は冷たく言い放ったが、内心で動揺していた。
(気に入っている? 私が? あんな……)
蓮は陽向の方を見た。陽向は同期の新入社員と何かを談笑していた。笑いながら手を振っている。無邪気で眩しいような笑顔。
(……気に入っている、か)
蓮は自分の心の内に確かにその感情があることに気づいた。
気に入っている。いや、それ以上かもしれない。
(いや、待て。それは違う。ただの部下として……)
蓮は必死に自分を正当化しようとした。
だが心の奥底で、小さな声が囁いている。
——もう、防衛線は突破されている。
——あなたはもう逃げられない。
蓮は小さく息を吐いた。
(……分かっている)
分かっている。分かっているのだ。自分の心が陽向に惹かれていることを。
だが認めたくない。認めたくないのだ。
「鬼の黒崎」として完璧を求めてきた自分が、こんなにも単純な感情に翻弄されているなんて。
(……仕事だ。仕事に集中しろ)
蓮はそう自分に言い聞かせ、画面に向き直った。
昼休みのチャイムが鳴り、オフィスがざわつき始めた。
蓮はいつものようにデスクで簡単な食事を済ませようとしていた。弁当を取り出し、パソコンの画面を見ながら箸をつけようとした。
「黒崎さん!」
陽向が元気よく駆け寄ってきた。
「……何だ」
「一緒にランチ行きましょう!」
蓮は眉をひそめた。
「……断る。私はここで食べる」
「えー、またですか? 最近いつもそうですよね」
陽向は唇を尖らせた。
「それがどうした」
「いや、だから……」
陽向は少し困ったような表情を浮かべた。
「黒崎さん、一人だと寂しいですよね?」
蓮は箸を持った手が止まった。
「……何?」
「だっていつも一人で食べてますもん。お昼も、昨日の夜も。私、気づいちゃいました」
陽向は真っ直ぐな目で蓮を見つめた。
「黒崎さん、実は寂しがり屋なんですよね?」
蓮は言葉を失った。
(……なぜ、こいつは)
なぜこんなことまで気づいているのだ。
自分が寂しがり屋だということを。一人でいることが実は辛いということを。
「……馬鹿なことを言うな」
蓮は冷たく言い放った。
「私は一人でいるのが好きなのだ。邪魔されると困る」
「本当ですか?」
「本当だ」
「じゃあ、なんで昨日は一緒に帰ってくれたんですか?」
蓮は噎せ返った。
「……それは」
「黒崎さん、口では嫌がってるけど、実は一緒にいてくれると嬉しいんですよね?」
陽向は悪戯っぽく笑った。
「……」
蓮は反論できなかった。
陽向の言う通りだった。一人でいたくない。誰かと一緒にいたい。特に陽向と一緒にいたい。
だがそれを認めるわけにはいかない。
「……勝手にしろ」
蓮はそう言って、弁当を仕舞った。
「え、行くんですか?」
「黙れ。行くぞ」
蓮は立ち上がり、陽向を促した。
陽向は満面の笑みになった。
「はい! やったー!」
蓮は陽向の無防備な喜びようを見て、内心で苦笑していた。
(……本当に、勝手な奴だ)
だがその「勝手さ」が、今の蓮には心地よかった。
会社の近くの小さな定食屋。蓮は陽向に連れられて、初めて入る店だった。
「ここ、私が見つけたんですよ! おいしいですよね、先輩?」
陽向は得意げに言った。
「……来たこともないのに、どうして私の好みが分かる」
「だって黒崎さんのこと、観察してましたもん」
陽向は当たり前のように言った。
蓮は内心で驚いた。
(……観察?)
「はい、メニュー」
店員がメニューを持ってきた。
陽向は蓮に向かってメニューを差し出さなかった。代わりに店員に向かって言った。
「すみません、こちらのお客様、豚肉の生姜焼き定食をお願いします。味噌汁はあさりのお吸い物に変更で。あと、お漬物は苦手なので別のものに代えていただけますか?」
蓮は目を見開いた。
「……なぜ、君がそんなことまで……?」
「え? 黒崎さん、豚肉の生姜焼き好きでしょう? 先輩のデスク、いつもその匂いがしてましたもん」
「……」
「あさりのお吸い物も前に飲んでたの見ました。お漬物はいつも残してたじゃないですか」
陽向は照れくさそうに笑った。
「先輩のこと、気になりますから」
蓮は心臓が止まるかと思った。
(……気になる?)
陽向は蓮の動揺に気づいていない様子で続けた。
「だって先輩のこと、もっと知りたいんです。好きなものも苦手なものも。そうしたらもっとお手伝いできるじゃないですか」
蓮は頭の中が真っ白になった。
(……もっと知りたい?)
(好きなものも苦手なものも?)
(……これは、まさか)
蓮は陽向の言葉を恋愛的な意味で解釈してしまった。
気になる。もっと知りたい。好きなもの、苦手なもの。
これは告白ではないのか?
「……君は」
蓮は乾いた喉を潤しながら言葉を探した。
「……私のことを、どう思っているんだ?」
「え?」
陽向は不思議そうな顔をした。
「どうって……先輩のこと、尊敬してますよ。すごく頼りになるし、優しいし」
「……それだけか?」
「それだけ、って……」
陽向は首を傾げた。
「あ、もちろんもっと仲良くなりたいです! 黒崎さんなかなか心開いてくれないじゃないですか。でも昨日一緒に帰った時、ちょっとだけ打ち解けてくれた気がして」
陽向は照れくさそうに笑った。
「だからもっと先輩のこと知りたいんです。友達になれたら嬉しいなって」
蓮は陽向の言葉を聞きながら確信を深めていた。
(……これは、間違いない)
陽向は自分に好意を抱いている。恋愛的な意味で。
「友達」という言葉は照れ隠しだ。本当はもっと特別な関係を求めているに違いない。
(……だが、私はどうする?)
蓮は自分の心の内を問いかけた。
陽向への感情はもはや隠せない。気に入っている。いや、それ以上だ。
だったら応えてやるべきではないのか?
「……佐藤」
蓮は真剣な声で陽向を見つめた。
「はい?」
「君の気持ちは……分かった」
「え? 何の話ですか?」
陽向は不思議そうな顔をしていた。
蓮は深く息を吸った。そして覚悟を決めた。
「……私も、だ」
「は?」
「君のこと、気になる。……いや、それ以上かもしれない」
蓮は自分の言葉に耳が熱くなるのを感じた。
「黒崎さん……?」
陽向は目を瞬かせていた。
蓮は陽向の反応を見て確信を深めた。
(……やはり、そうだ)
陽向は自分の告白に動揺している。照れている。これは間違いない。
「……だが、私たちは職場の先輩後輩だ。簡単な関係ではない。君もそれは分かっているだろう」
「え、ええ……」
「だから急ぐつもりはない。だが、君の気持ちに……応えたい」
蓮はそう言って視線を逸らした。
陽向はしばらく言葉を失っていた。
「……黒崎さん」
「何だ」
「それって、どういう意味ですか?」
蓮は陽向の質問に少し戸惑った。
(……どういう意味、とは)
「……君が私のことを特別に思ってくれていることに、応えたいという意味だ」
「特別に……?」
陽向はますます困惑した顔をした。
「あ、ああ! わかりました! 先輩のこともっとお手伝いしたいってことですね! もちろんです、それは私の仕事ですから!」
蓮は陽向の反応に違和感を覚えた。
(……仕事、だと?)
「……仕事、だと?」
「はい! 先輩のアシスタントとしてもっと役に立ちたいんです! それで先輩の好きなものとか苦手なものとか、覚えようと思って!」
陽向は純粋な笑顔で言った。
蓮は一瞬、世界が傾いた気がした。
(……何?)
(……これは、どういうことだ?)
「……君は、私のことをどう思っているんだ?」
蓮はもう一度尋ねた。
「尊敬する先輩です! あともっと仲良くなりたい人です!」
「……恋愛的な意味では、ないのか?」
「はぁ?」
陽向は目を丸くした。
「恋愛的な意味って……黒崎さん、私、男ですよ?」
「……分かっている」
「いや、だから……」
陽向は困ったように笑った。
「私、黒崎さんのこと先輩として大好きですよ。尊敬してます。でも恋愛的な意味じゃなくて……」
その瞬間、蓮は全てを理解した。
(……勘違い、していた)
陽向の「気になる」は恋愛的な意味ではなかった。純粋に先輩としての自分を知りたいという意味だった。
「もっと知りたい」も「好きなもの、苦手なもの」も、全て仕事のための情報収集だった。
(……私は、何を)
蓮は自分の愚かさに顔から火が出るほど恥ずかしさを感じた。
「……そうか」
蓮はできるだけ平静を装い、そう言った。
「……仕事のため、だったのか」
「はい! でも先輩のこともっと知りたいって気持ちは本当ですよ。プライベートのことも知れたら嬉しいなって」
陽向は無邪気に笑った。
蓮はその笑顔を見て、心が複雑に揺れた。
(……この馬鹿は、自分が何を言っているのか分かっているのか)
「プライベート」のことも知りたいとは。それはどう解釈すればいいのか。
だが陽向の表情は全く恋愛的な色合いを帯びていない。純粋に人としての自分を知りたいという意味なのだろう。
(……私だけが、恋心を抱いているのか)
蓮はその事実に小さくため息をついた。
陽向は自分に特別な感情を抱いていない。尊敬し仲良くなりたいと思っているだけだ。
だが蓮の方は違う。
陽向のことが気になって仕方がない。一緒にいたい。もっと知りたい。触れたい。
(……片思い、か)
蓮は自分の置かれた状況をようやく理解した。
情報差が生じている。蓮だけが恋心を抱いている。陽向はただの好意——先輩としての好意——を抱いているだけだ。
「……黒崎さん? どうかしましたか?」
陽向が心配そうに尋ねた。
「……いや、何でもない」
蓮はそう言って視線を逸らした。
「あ、そうだ! 生姜焼き、来ましたよ!」
陽向が嬉しそうに言った。
テーブルに蓮の好み通りの生姜焼き定食が置かれた。味噌汁はあさりのお吸い物、お漬物は別のものに変えられている。
「……覚えていたのか」
蓮は小さく呟いた。
「もちろんです! 先輩のこと、観察してましたから」
陽向は得意げに笑った。
蓮はその笑顔を見て、心が締め付けられるのを感じた。
(……この馬鹿め)
(……どうして、そんな無防備な笑顔を見せるのだ)
蓮は陽向への想いがますます深まっていくのを感じていた。
ランチを終え、会社へと戻る道すがら。
陽向は終始上機嫌だった。蓮と一緒に食事ができたこと、それだけで嬉しいらしい。
「黒崎さん、今日は楽しかったです! また一緒に行きましょうね!」
陽向は無邪気に笑った。
蓮はその笑顔を見て、複雑な気持ちになった。
(……また、一緒に?)
陽向にとってはただの先輩後輩の食事だ。それ以上の意味はない。
だが蓮にとっては違う。陽向との時間は特別なものになっている。
「……勝手にしろ」
蓮は冷たく言い放った。
「えー、またそれですか。黒崎さん、本当は嬉しいんですよね?」
「……黙れ」
「ふふ、照れてる照れてる」
陽向は悪戯っぽく笑った。
蓮は陽向に背を向け、先を歩き始めた。
(……勝手にしろ、と言ったが)
(……本当は、嬉しい)
陽向とまた一緒に食事ができる。それを想像するだけで蓮の心は浮き立っていた。
「黒崎さん、待ってくださいよー!」
陽向が後ろから追いかけてきた。
蓮は振り返らなかった。だが口元には小さな笑みが浮かんでいた。
(……本当に、困った奴だ)
(……だが、私は)
蓮は自分の心の内を確かめた。
陽向への想いはもはや止められない。片思いだとしても構わない。
この感情を大切にしたい。
「黒崎さん、遅いですよー!」
陽向が並んで歩いてきた。
蓮は横目で陽向を見た。陽向は相変わらずの無防備な笑顔で蓮を見つめていた。
「……仕方ないな」
蓮は小さく呟いた。
「え? 何か言いましたか?」
「……何も言っていない」
蓮はそう言って足を早めた。
陽向も元気よくついてきた。
午後の日差しが二人を照らしていた。
蓮は陽向との距離が少しだけ近づいた気がして、内心で喜んでいた。
(……また、一緒に行こう)
蓮はそう心の中で呟いた。
誰にも聞これない、小さな願いだった。
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