2話 防衛線、突破される「君が綺麗すぎて、怖がっている暇がありません」

君が綺麗すぎて、怖がっている暇がありません2026-05-08 16:28:27

2話 防衛線、突破される「君が綺麗すぎて、怖がっている暇がありません」

翌朝——。
黒崎蓮の私室のドアには、真っ白な紙が貼られていた。
『立ち入り禁止』
赤いマジックで書かれた四文字は、まるで血文字のように不気味に滲んでいる。これは「鬼の黒崎」が本気で怒っている時の合図だ。チームの誰もが、これを見たら近づかないのが常識だった。
——はずだった。
「あれ? 黒崎さん、もう来てるんですか?」
廊下の向こうから、明るすぎる声が響いた。
佐藤陽向。二十二歳の新入社員。蓮のアシスタントになってまだ三日目の、周囲の空気を読まない天然男である。
「立ち入り禁止……」
陽向はドアの紙を見て、首を傾げた。
(……無視するな。絶対に無視するなよ)
(……無視するな)
(……無視するな)
三回念じた。だが——
「おはようございまーす!」
カチャ。
(無視した)
陽向は、あっさりとドアを開けた。
蓮の私室は、社内でも随一の広さを誇るディレクター室だった。窓から差し込む朝の光が、整えられたデスクと書棚を照らしている。そして——
「……何してるんだ」
デスクに突っ伏していた蓮が、ゆっくりと顔を上げた。
「あ、おはようございます! 黒崎さん!」
陽向は、まるで朝日そのもののように眩しい笑顔を浮かべていた。
(……この男、昨日のこと忘れたのか?)
蓮は内心で舌打ちした。昨日——陽向が突然この部屋に押しかけてきて、勝手にコーヒーを淹れ始めたのだ。蓮は「勝手に入るな」と怒鳴ったはずなのに。
「……見たら分かるだろう」
蓮は冷たく言った。
「立ち入り禁止の札がある。読めないのか」
「あ、はい。読めますよ」
「なら、なぜ入ってきた」
「だって、コーヒー淹れる準備をしようと思って」
陽向は、それが当然のことだと言うように、無邪気に笑った。
(……何なんだ、この人。理解力がない? それとも意地悪か?)
蓮は眉をひそめた。だが、陽向は気にした様子もなく、勝手に部屋の隅にあるコーヒーメーカーに近づいていく。
「昨日、黒崎さんのお仕事を見てたら、夜遅くまで残ってるのに気づいたんです。だから、朝からちゃんとしたコーヒーが飲めたらいいなって」
「……余計なお世話だ」
「えへへ。でも淹れますね」
陽向は、コーヒー豆の袋を開け始めた。
蓮は、立ち上がろうか迷った。追い出すべきだ。絶対に追い出すべきだ。これはプライドの問題だ。立ち入り禁止の札を無視されたのだ。黒崎蓮——「鬼の黒崎」の威厳が——
「……フレンチプレスで淹れるんですか? それともサイフォン?」
「……勝手にしろ」
蓮は、デスクに顔を伏せた。
(……仕方ない。今日だけ、だ)
そう言い聞かせながらも、蓮の唇には微かな笑みが浮かんでいた。
——それから十分後。
「はい、どうぞ!」
陽向は、湯気立つコーヒーカップを蓮の前に差し出した。
蓮は、ゆっくりと顔を上げた。カップを見る。そして陽向の顔を見る。
「……」
「淹れ方、間違ってたらすみません。昨日覚えたばかりなので」
陽向は、心配そうに首を傾げた。
蓮は、カップを取り上げた。香りを嗅ぐ。——悪くない。むしろ、意外と良い。
「……まあまあだ」
蓮は、目を逸らしながらそう言った。
「えへへ、良かった!」
陽向の笑顔が、さらに輝いた。
(……眩しい)
蓮は、内心で呟いた。
(何だ、この笑顔。害がある。目が痛い)
蓮は、コーヒーを一口啜った。——本当に、悪くない。豆の選び方も、湯温も、抽出時間も、意外と丁寧に計算されている。
「……誰に教わったんだ」
「え? あ、動画で見たんです。YouTubeで『鬼の黒崎に認められるコーヒーの淹れ方』って検索したら」
「……検索したのか」
「はい! 黒崎さんの好みを調べるの、大変でしたよ。先輩方に色々聞き回って」
(……聞き回って? 誰に? 何を?)
蓮は、内心で動揺した。自分の好みを新入社員に教えるような人間がチームにいるのか。いや、いるな。鈴木美咲だ。あの女、確かにやりかねない。
「……余計なことを」
蓮は、冷たく言った。
「でも、喜んでもらえたみたいで良かったです!」
「喜んでなどいない。ただ、まあまあだったと言っただけだ」
「はい。でも、ちょっとだけ笑ってましたよね?」
「……見間違いだ」
蓮は、素っ気なく言い放った。
陽向は、少し残念そうな顔をしたが、すぐにまた笑顔を取り戻した。
「じゃあ、机の整理もしますね!」
「……何?」
蓮が顔を上げた時には、もう遅かった。
陽向は、蓮のデスクに近づき、散らかった書類を覗き込んでいた。
「わあ……黒崎さん、すごいですね!」
「勝手に触るな! それは——」
「この企画書、去年の大賞受賞作じゃないですか! テレビで見ましたよ!」
陽向は、目を輝かせていた。
「……知ってるのか」
「もちろんです! あのCM、僕も大好きでした。音楽と映像の組み合わせが最高で……あ、これは別の企画書? え、これも黒崎さんが手掛けたんですか?」
陽向は、次々と書類を手に取っていく。
蓮は、慌てて立ち上がった。
「やめろ。そこまでだ。戻せ」
「でも、全部すごいです! この業界でこんなにたくさんの賞を取った人、他にいないんじゃないですか?」
「……たまたまだ」
蓮は、陽向の手から書類を奪い取った。
「余計なことをするな。お前はアシスタントだ。数字を見るのが仕事だ」
「はい、分かりました。でも——」
陽向は、蓮の目をまっすぐ見つめた。
「黒崎さんって、本当に素敵です」
「……は?」
「こんなに素晴らしい仕事をたくさんしてるのに、全然自慢しないんですよね。むしろ、隠してるみたいで」
陽向の言葉は、まっすぐだった。揺れがない。からかっているわけでも、お世辞を言っているわけでもない。ただ、純粋にそう思っている——そのように見えた。
蓮は、一瞬、言葉を失った。
「……何を、言っているんだ」
「だから、素敵ですって」
「……聞こえている。黙れ」
蓮は、顔を背けた。
(……何だ、これ)
(何で、こんなに——)
蓮の心臓が、一拍、大きく跳ねた。
「……黒崎さん?」
「……何でもない。仕事に戻れ」
蓮は、デスクに戻り、書類に目を落とした。だが、集中できない。視界の端に、陽向の笑顔がちらつく。
「あ、そうだ。今日の打ち合わせ、一緒に行きませんか? 営業部の人と」
「……断る」
「えー、行きましょうよ。黒崎さんと一緒なら、僕も心強いですし」
「……心強い?」
「はい! だって、黒崎さんはすごい人ですから」
(……またか)
蓮は、内心でため息をついた。
(この男、何回「素敵」「すごい」って言うんだ。飽きないのか)
(……いや、待て)
(本当に、飽きないのか?)
蓮は、ふと、顔を上げた。陽向の笑顔を見た。
——眩しい。
本当に、朝日のように眩しい。
「……分かった」
蓮は、思わずそう言っていた。
「一緒に行こう」
「え、本当ですか!? やったー!」
陽向は、両手を挙げて喜んだ。
その時——
「……おはようございま——って、何この空気」
ドアが開き、鈴木美咲が顔を出した。
二十六歳の先輩デザイナー。蓮のチームに所属する、数少ない「鬼の黒崎」に慣れた人間の一人だ。
美咲は、部屋の中を見回した。
蓮がデスクに座っている。陽向が立って、嬉しそうにしている。二人の間には、奇妙な和やかさが漂っている。
「……黒崎さん? 佐藤くん? 何かあったんですか?」
美咲は、困惑した顔をした。
「いえ、何も」
蓮は、冷静に言った。
「そうですよ、何もないです!」
陽向は、満面の笑みで言った。
美咲は、二人を交互に見た。そして——
「……え?」
目を見開いた。
蓮のデスクに、コーヒーカップが置かれている。湯気が立っている。誰かが淹れたのだ。しかも、蓮がそれを飲んでいる。
「……あれ? 黒崎さん、コーヒー飲んでる?」
「……何か問題でも?」
「い、いえ! 全く!」
美咲は、慌てて首を振った。
(……何これ。黒崎さん、誰かに淹れてもらったコーヒー、飲むんだ)
(……しかも、怒ってない?)
美咲の脳内で、警報が鳴り響いた。
この男——佐藤陽向。ただの新入社員ではない。何か、ある。何か、大きな何かが——
「あ、鈴木さん! おはようございます!」
陽向は、美咲に笑顔で挨拶した。
「あ、ああ。おはよう……」
美咲は、ぎこちなく応えた。
「じゃあ、黒崎さん! 打ち合わせの時間になったら呼んでくださいね! 僕、準備してますから!」
陽向は、軽やかに部屋を出ていった。
残された蓮と美咲。
「……黒崎さん」
「何だ」
「あの子、何かしました?」
「……特になにも」
蓮は、コーヒーを啜った。
美咲は、蓮の顔を覗き込んだ。——何か、変だ。いつもの「鬼の黒崎」ではない。どこか、柔らかい。いや、そんなわけ——
「……笑ってます?」
「……は?」
蓮は、カップを置いた。
「見間違いだ」
「いや、今確かに——」
「見間違いだ」
蓮は、冷たく繰り返した。
美咲は、もう一度、蓮の顔を見た。——確かに、笑ってはいない。いつもの、凍てついた表情だ。
(……やっぱり、気のせいか)
美咲は、肩をすくめた。
「分かりました。じゃあ、今日のスケジュールを——」
蓮は、美咲の報告を聞きながら、内心で一人、小さく舌打ちした。
(……まったく)
(あの男、何なんだ)
(……だが)
蓮は、空になったコーヒーカップを見つめた。
——悪くない、と思った。
味も、そして——淹れてくれた相手も。
「あ、そうだ」
美咲が報告を終え、部屋を出ようとした時——
ドアが開き、陽向が顔を出した。
「黒崎さん! 明日もコーヒー淹れますね!」
「……は?」
「今日の分、おいしかったですか? 明日はもっとおいしく淹れますから!」
陽向は、それが約束事だと言うように、眩しい笑顔で宣言した。
蓮は、一瞬、言葉を失った。
「……勝手にしろ」
小さく、そう呟いた。
「はい! じゃあ明日も楽しみにしててください!」
陽向は、満足そうに頷いて、また出ていった。
美咲は、呆然としていた。
「……黒崎さん。明日も、ですか?」
「……知らん」
蓮は、デスクに向き直った。
だが——
(……まったく)
蓮の唇の端が、誰にも気づかれない程度に、緩んでいた。
(本当に、勝手な男だ)
(……だが)
(悪くない、と言えば——)
蓮は、窓の外を見た。
朝日が昇り、新しい一日が始まろうとしている。
——防衛線は、もうとっくに突破されていた。
蓮は、それに気づいていなかった。
(……まったく)
小さく、照れ笑いを浮かべながら——
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