1話 新人アシスタント、鬼に任命される 「君が綺麗すぎて、怖がっている暇がありません 」
1話 新人アシスタント、鬼に任命される 「君が綺麗すぎて、怖がっている暇がありません 」
四月の朝日が、ガラス張りのオフィスビルをきらきらと照らしていた。
佐藤陽向はスーツの襟元を直しながら、エレベーターの前で深く息を吸い込んだ。二十二年の人生で、こんなに背筋を伸ばした日はなかった。
(入社初日……緊張するなあ)
大手広告代理店「クリエイティブ・ビジョン」——業界トップクラスの実績を誇る会社に、まさかの内定をもらった新入社員だ。周囲は有名大学の卒業生ばかりで、陽向みたいな地方の普通大学出身者は珍しい。
エレベーターに乗り込み、最上階のクリエイティブフロアを目指す。
「あ、おはようございます!」
ドアが開いた瞬間、陽向は元気よく挨拶をした。しかし、周囲の反応は予想外だった。
「……」
先輩社員たちが一斉に顔を背ける。誰も陽向の目を見ようとしない。
(え? 何か変なこと言ったかな?)
「あ、あの……私、今日から配属された佐藤陽向です。よろしくお願いします!」
必死に笑顔を作って再度挨拶すると、ようやく一人の女性が近づいてきた。
「……佐藤くん?」
「はい!」
「私、鈴木美咲。デザインチームの先輩よ」
美咲は陽向の名札を見つめながら、困ったような表情を浮かべていた。
「あの……鈴木さん、私、何か失礼なことしましたか?」
「いえ、別に……」
美咲は周囲を見回し、陽向の耳元に顔を近づけた。
「佐藤くん、聞いておいた方がいいわ。『鬼の黒崎』って、知ってる?」
「鬼の……黒崎?」
「うちの会社で一番有名な人よ。天才クリエイティブディレクターで、全社員から恐れられてるの。完璧主義で厳格で、新人を泣かせるのが趣味みたいな人」
陽向は首を傾げた。
「そんなに怖い人なんですか?」
「怖いも何も、絶対に近づかない方がいいわ。今まで黒崎さんのアシスタントになった新人は、三日で辞めた子もいるのよ」
「三日で……」
「仕事ができない子は容赦なく切り捨てるの。言葉のナイフでグサグサ刺してくるから、心がボロボロになって辞めるのよ」
美咲は真剣な顔で言った。
「だから佐藤くんも気をつけてね。黒崎さんには、絶対に近づかないこと」
陽向は美咲の真剣な表情を見て、頷いた。
「わかりました。気をつけます」
(鬼の黒崎……どんな人なんですか?)
好奇心が湧いてくる。どんな人が、そんな恐ろしい異名を持つのだろう。
午前中は入社オリエンテーションで終わった。同期たちと一緒に、会社のルールや業務内容を学ぶ。
昼休み、陽向は食堂でおにぎりを食べながら同期たちと話していた。
「ねえ、聞いた? 『鬼の黒崎』の話」
「聞いた聞いた! あの人、去年の新人を三人泣かせたんだって」
「えー、怖い……」
同期たちは顔を青くしていた。
陽向はおにぎりをかじりながら考えた。
(本当にそんなに怖い人なのかな? 会ってみないとわからないよね)
午後、人事部から呼び出しがあった。
「佐藤陽向さんですね。配属先が決まりました」
人事の女性は書類を確認しながら言った。
「佐藤さんは、クリエイティブディレクター部門の黒崎蓮さんのアシスタントに決定しました」
「黒崎さんのアシスタント……私が?」
陽向の声が思わず上ずった。
人事の女性は同情の目を向けた。
「はい。黒崎さんのチームは会社で最も重要な部署です。佐藤さんが選ばれたのは、面接時の評価が高かったからです」
「あ、ありがとうございます……」
「でも、覚悟はしておいてください。黒崎さんは……厳しい方ですから」
人事の女性は肩を落とした。
陽向がオフィスに戻ると、周囲の視線が一斉に集まった。同情の目、憐れみの目、そして「助けてあげられない」という諦めの目。
美咲が駆け寄ってきた。
「佐藤くん、聞いたわよ……本当に大丈夫?」
「はい、黒崎さんのアシスタントになったみたいです」
「まさかあなたが……」
美咲は陽向の肩を掴んだ。
「本当に大丈夫? 無理して辞めたくなったら、すぐに相談してね。私たち、助けるから」
陽向は美咲の心配そうな顔を見て、にっこり笑った。
「ありがとうございます! でも、大丈夫ですよ。頑張ります!」
(鬼の黒崎さんのアシスタント……面白そう!)
陽向は心の底からそう思っていた。
---
午後三時。
陽向は最上階の一角にある個室の前に立っていた。プレートには「黒崎 蓮」と書かれている。
(ここが、鬼の黒崎さんの部屋……)
ドキドキしながら、ノックをした。
「……入れ」
冷たい声が扉の向こうから聞こえた。
陽向は息を吸ってからドアを開けた。
部屋の中は驚くほど整っていた。窓から差し込む午後の光がデスクを照らしている。そして、そのデスクに向かって座っていた人物が——
陽向の思考が、一瞬停止した。
(……綺麗)
黒崎蓮は、二十八歳とは思えない美しさを持っていた。整った顔立ち、鋭い瞳、そして黒髪が光を受けて艶やかに輝いている。スーツのシルエットも完璧で、まるで雑誌の広告から抜け出てきたような——いや、それ以上の美しさだった。
蓮は冷たい視線を陽向に向けた。
「用は?」
短く鋭い一言。
陽向は我に返った。
「あ、あの! 本日からアシスタントに配属されました、佐藤陽向です! よろしくお願いします!」
陽向は勢いよく頭を下げた。
蓮は眉をわずかに動かした。
「……佐藤?」
「はい!」
「知っている。人事から連絡があった」
蓮は陽向の顔をじっと見つめた。その視線は、まるで品定めをしているようだった。
「……綺麗」
陽向は思わず呟いた。
蓮の表情が一瞬凍りついた。
「……何?」
「あ、いえ! その……」
陽向は慌てて言葉を探した。美咲から聞いた噂を思い出す。鬼の黒崎、完璧主義、厳格、新人を泣かせる——
(怖い。本当に怖い)
でも、目の前の人は噂とは違う。怖いけれど、それ以上に——
「怖いです」
陽向は正直に言った。
蓮の瞳がわずかに揺れた。
「……ほう」
「でも、あなたが綺麗すぎて、怖がっている暇がありません」
部屋に沈黙が訪れた。
蓮は陽向の顔を見つめたまま動かなかった。表情は変わらないが、耳がわずかに赤くなっていることに、陽向は気づいていなかった。
(何を言っているんだ、こいつは——)
蓮の内心は大混乱だった。今まで誰も言ったことのない言葉。新人社員が、初対面で、上から目線で「綺麗」と言った。
「……帰れ」
蓮は冷たく言い放った。
「え?」
「お前のような奴は必要ない。人事に伝えて、配属を変えさせる」
陽向は首を傾げた。
「でも、私がアシスタントなんです」
「……何?」
「人事の方も、私が選ばれたって言ってました。黒崎さんのチームは会社で一番大事な部署だから、選ばれたんです」
陽向は真っ直ぐな目で蓮を見つめた。
「だから、帰れません。頑張ります!」
蓮は陽向の目を見つめ返した。澄んだ瞳、迷いのない表情——そして、何も隠していない純粋さ。
(……仕方ない)
蓮は内心でため息をついた。
「……仕方ない。今日だけだ」
「本当ですか! ありがとうございます!」
陽向の顔が一瞬で輝いた。
蓮はデスクの上の書類を取り出した。
「まずはこれを読んで覚えろ。明日からの仕事の流れだ」
「はい!」
陽向は書類を受け取り、熱心に読み始めた。
蓮は陽向の横顔をちらりと見た。真剣な表情で書類に目を通す姿は、悪くない。
(……綺麗、だと?)
蓮は内心でその言葉を反芻した。照れ隠しのようにデスクに向き直った。
「わかりました!」
陽向の元気な声が部屋に響いた。
「何がわかったんだ」
「明日からの仕事の流れです! 資料を整理して、会議の準備をして、黒崎さんのスケジュール管理をするんですね!」
「……そうだ」
「頑張ります!」
蓮は陽向の明るい笑顔を見て、何も言えなかった。
(……あいつ、何なんだ)
蓮は内心でそう思った。
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午後七時。
陽向は駅に向かいながら、今日一日を振り返っていた。
(鬼の黒崎さん……確かに怖かったけど、綺麗だったなあ)
窓から差し込む光に照らされた蓮の横顔を思い出す。まるで彫像のような美しさだった。
「明日も頑張ろう」
陽向は小さく呟いた。
一方、クリエイティブ・ビジョンの最上階。
蓮はオフィスに一人取り残されていた。デスクに向かいながら、今日の出来事を思い出していた。
「……綺麗、だと?」
陽向の言葉が頭の中で繰り返される。
蓮は自分の耳に触れた。熱い。
(……あいつ、何なんだ)
蓮はデスクに顔を伏せた。
「……仕方ない。今日だけ、だ」
そう言いながらも、蓮の唇には微かな笑みが浮かんでいた。
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