消えた初恋、また消えそう(続編創作)

BL2026-04-27 18:57:40

消えた初恋、また消えそう(続編創作)

消えた初恋、また消えそう
〜社会人編〜
── 消えた初恋 続編創作 ──
プロローグ ── 五年後の春
 春というのは、どうしてこう人の心を揺さぶるのだろう。
 青木陽向はそんなことを考えながら、満員電車の吊り革にしがみついていた。新宿駅で乗り換えるたびに、毎年この季節、自分の心がどこか不安定になることに気づいている。
 理由は分かっている。春は始まりの季節だ。そして始まりというのは、必ず何かの終わりと背中合わせにある。
 社会人になって、もう二年が経つ。大学時代の友人たちとも、会う機会はめっきり減った。特に——
「次、新宿三丁目〜」
 アナウンスに引き戻されて、青木は慌てて鞄を抱え直した。
 特に、井田一颯とは。
第一章 消えた初恋と消えない記憶
 青木陽向、二十四歳。広告代理店の営業部に勤務する、普通の社会人だ。
 学生時代のあのドタバタした日々から五年——高校時代に消しゴムに名前を書いてしまったことから始まった、あの謎めいた片思いとすれ違いの連続は、今では懐かしい思い出になっていた……はずだった。
「青木くーん、例の企画書まだ?」
「あ、すみません!今すぐ!」
 上司の声に飛び上がりながら、青木はパソコンに向かった。画面には半分しか書けていない企画書。集中できていない自分に気づいて、小さくため息をついた。
 今日は何でもない普通の水曜日のはずだった。
 しかし昨日——。
 昨日、青木は偶然、SNSで井田一颯のアカウントを見つけてしまったのだ。
 フォローしたわけでもない。検索したわけでもない。共通の友人が「いいね」を押した投稿が、たまたまタイムラインに流れてきただけだ。
 そこには、スーツ姿の井田が映っていた。相変わらず整った顔立ちで、相変わらず無表情に近い、でもどこか少しだけ柔らかくなったような——。
 投稿のキャプションには「異動初日。相変わらず新しい環境は好きじゃない」とだけ書かれていた。
「……変わってないな」
 思わず呟いて、青木は自分の顔が勝手に緩んでいることに気づき、慌てて企画書に向き直った。
「変わってない、じゃなくて。関係ない。もう関係ない話だ」
 しかし指は止まった。
 異動。
 その一文字が、どうしても頭から離れなかった。
第二章 偶然というやつは本当に性格が悪い
 翌週の月曜日。
 青木は取引先への提案のため、初めて訪れるビルのエレベーターホールで、番号ボタンを押しながら腕時計を確認していた。約束の時間まであと三分。ギリギリだ。
「……閉まらないでくれよ」
 祈るようにエレベーターのドアを見つめた、その瞬間。
「開」
 ボタンを押して駆け込んできた人物と、青木は正面から目が合った。
 スーツ。黒髪。無表情に近いが、どこかに驚きが滲む目。
「……」
「……」
 沈黙が二秒。
「お前」
「井田——!?」
 声が重なった。
 エレベーターのドアが静かに閉まった。
 井田一颯も、二十四歳。大学卒業後に入った大手IT企業で、エンジニアとして働いているらしいことは、あのSNS投稿から知っていた。しかしまさか、同じビルの取引先に出入りしているとは。
「……お前、今日ここに何の用?」
 先に口を開いたのは井田だった。相変わらず声のトーンが低い。表情も変わらない。でもさっきのあの一瞬、確かに驚いていた。青木はそれを見逃さなかった。
「あ、えっと、うちの会社の取引先が七階に入ってて。提案で」
「……そうか」
「井田は?」
「六階。先月から担当になった」
 ああ、異動というのはこういうことか。青木は心の中で納得した。
 エレベーターの数字が「6」に変わった瞬間、ドアが開く。
「じゃあ」
 そう言いかけた井田が、ドアを手で押さえながら振り返った。
「今日、何時に終わる?」
「え?」
「何時に終わるって聞いた。聞こえなかったか?」
 聞こえた。聞こえたけど。
「……たぶん、四時くらいには終わると思うけど」
「なら下のカフェで待ってる。来なくてもいい」
 ドアが閉まった。
 青木は一人、七階に向かいながら、自分の心臓が少し急いでいることに気づいた。
「来なくてもいい……って言っといて絶対待ってるやつじゃん」
 小声で突っ込んで、それから少し、笑った。
第三章 カフェの窓際で、五年分の話
 提案は三十分で終わった。取引先の担当者が非常に話の早い人で、ほぼその場でOKをもらえた。青木の会社に帰ってからそれを報告すれば良かったのだが、どういうわけか足は自然とビルの一階のカフェへ向いていた。
 窓際の席に、井田はいた。コーヒーを前に、スマートフォンを見ている。こちらに気づいていないのか、それとも気づいていて無視しているのか。
「……来た」
 青木が近づいた瞬間、井田はスマートフォンを置いた。顔は上げずに。
「待った?」
「十五分」
「ごめん」
「来なくていいって言っただろ」
「いや、それって絶対来ることを前提にした言い方じゃん」
 沈黙。
 それから井田は、ほんの少し、口の端を動かした。笑ったのだ。ほとんど分からないくらいの、小さな笑みだったけれど。
「変わらないな、お前」
「そっちこそ」
 青木は向かいの席に腰を下ろした。
 注文を済ませてから、二人はしばらく黙っていた。気まずいわけではない。ただ、何から話せばいいか分からないだけだ。五年というのは短くもなく長くもなく、積もった話は山ほどあるのに、どこから崩せばいいか分からない砂山みたいなものだった。
「大学、どこ行ったんだっけ」
「N大。経営学部。そっちは?」
「M大。工学部」
「ああ、やっぱ理系か」
「当たり前だ」
 短いやりとりが続く。それでも会話が続くのは、二人の間に断絶がないからだと青木は思った。五年のブランクがあっても、不思議とこの空気は変わっていない。
「就職してから、きつかった?」
 青木が聞くと、井田はコーヒーカップを両手で包んだ。
「最初の一年は死ぬかと思った。向いてないと思った」
「エンジニア?」
「社会人が」
 青木は思わず噴き出した。
「それ、めちゃくちゃ共感する。俺も最初の半年、毎朝起きるたびに『今日だけ休もうか』って考えてた」
「……今は?」
「今は、まあ。普通に楽しい日もある」
「そうか」
 井田は短く言って、窓の外を見た。春の午後、人々が行き交っている。
「俺も今は、まあ悪くない」
 それだけ言った。でも青木には、その「悪くない」がどれだけの変化を意味しているか、なんとなく分かった気がした。
第四章 勘違いから始まる伝統、再び
 それから、二人は月に二、三度、同じビルで顔を合わせるようになった。
 偶然エレベーターが一緒になることもあれば、示し合わせたわけでもないのに同じ時間にカフェにいることもある。最初のうちは「たまたまだな」と思っていたのだが、さすがに五回目あたりで青木は気づき始めた。
 これ、偶然じゃない。
「……なあ、井田」
「何だ」
「お前、俺がここに来る時間、なんとなく把握してる?」
 一瞬の間。
「……知らん」
「絶対知ってるじゃん!!」
「うるさい。カフェでデカい声出すな」
「小声で言う、俺この時間に来るって把握してるよね!?」
「……このビル、俺の担当先は月水金に来ることが多い。お前の担当先はたぶん火木。かぶることもある。それだけだ」
「それ、スケジュール研究してるって言わない!?」
 井田は視線を外して、コーヒーを飲んだ。耳が少し赤い気がする。気がする、だけかもしれない。
「……別に、お前に会おうとしてるわけじゃない」
「ふーん」
「何だその顔は」
「べつに〜?」
 青木は満面の笑みで言った。井田は眉間に皺を寄せた。
 しかしこの話には後日談がある。
 翌週の火曜日、青木は担当先から「来週から打ち合わせは水曜日にしたい」と連絡を受けた。つまり、これからは毎週水曜日にこのビルを訪れることになる。
 水曜日というのは、井田が来ることの多い曜日だ。
 青木はその連絡を受けた瞬間、「べつに関係ない」と思いながら、なぜかほんの少し、嬉しかった。
 そして翌水曜日、エレベーターホールで待っていた井田と目が合って、
「……火曜じゃなかったのか」
「担当が変わって、水曜になった」
「……そうか」
 そう言った井田が、ほんの少しだけ、口を引き結んで視線を逸らした。嬉しい感情を隠している人間の顔だと、青木には分かった。
「……なんか言うことあるんじゃない?」
「ない」
「本当に?」
「……ランチ、食うか」
「喜んで」
第五章 消しゴムの話
 ある水曜日の昼休み、カフェではなく近くのランチ定食屋に入った。混んでいる店内で向かい合って、二人はそれぞれ日替わり定食を頼んだ。
 食べながら、話しながら、青木はふと思い出した。あの頃のことを。
「なあ、覚えてる? 消しゴムの話」
 箸が止まる。
「……消しゴム」
「高校のとき。俺が橋下さんの名前を書いた消しゴム、お前に間違えて渡して。それで、なんかすごいことになったじゃん」
 長い沈黙。
「……覚えてる」
「あのときお前、俺のことが好きだと思って誤解してたんだよな。俺は橋下さんが好きで、お前は俺が好きで——」
「わざわざ整理するな」
「あはは、ごめんごめん」
 青木は笑いながら、箸でご飯をすくった。
「でも、今思うと笑えるよな。あんな消しゴム一個から、あんなにぐちゃぐちゃになるって」
「……ぐちゃぐちゃにしたのはお前だろ」
「えっ、俺!?」
「お前が橋下の名前を俺に見えるところに書くから」
「いや、見えるところに書いたわけじゃ——」
「結果的に見えた」
「そ、そりゃまあ……」
 青木は苦笑いしながら頭をかいた。
「でも、まあ、なんていうか……あの頃のこと、嫌いじゃないよ。変な思い出だけど」
 言ってから、少し恥ずかしくなった。何を唐突に言い出しているのか。
 でも井田は否定しなかった。
「……俺も」
 短く、静かに言った。
「嫌いじゃない」
 それだけだったけれど、青木には十分だった。
第六章 雨と、傘と、どうしようもない気持ち
 六月。梅雨。
 その日の打ち合わせは長引いた。終わったのは夕方の六時過ぎで、ビルを出ると外は本降りの雨だった。
「くそ、傘持ってくるの忘れた」
 入口でスマートフォンを出してタクシーを探していると、
「青木」
 振り返ると、井田がいた。折り畳み傘を手に持って。
「……一本しかないんだが」
「え、でも——」
「駅まで一緒に行け。送ってやる」
「いや、でも井田、駅反対方向じゃ——」
「うるさい。早く来い。濡れる」
 傘を差し出された。有無を言わさぬ雰囲気に、青木は「あ、ありがとう……」と小声で言いながら隣に並んだ。
 傘は一本。二人で入ると肩が触れるくらいの距離になる。
 歩き出して少しして、青木は気づいた。井田が少し外側に寄っていることに。自分が濡れないよう、傘を青木の方に傾けながら。
「……井田、濡れてるじゃん」
「気にするな」
「気にするよ!」
 青木は傘を奪い取るように持ち直して、今度は自分が井田の方に傘を向けた。
「お前が濡れろって言うのか」
「そういうわけじゃないけど……もうちょっと中に入って」
 二人の距離が縮まる。
 雨音の中、並んで歩いた。街の灯りが雨に滲んで、どこか非現実的な景色だった。
 駅の手前で、青木は足を止めた。
「なあ、井田」
「何だ」
「……俺、お前のこと、高校のとき嫌いじゃなかったよ。それだけは言っとこうと思って」
 雨音。電車の音。
「……何が言いたい」
「いや、ただ。あの頃ちゃんと言わなかったなって。ずっと引っかかってたから」
「……それ、今言う意味があるか」
「あるかもしれないし、ないかもしれない。分かんない」
 正直に言ったら、井田が少しだけ表情を変えた気がした。眉が緩んで、目が柔らかくなって。
「……お前、本当に変わらないな」
「それ、さっきも言ってたじゃん」
「また言いたくなった」
 そう言って、井田は歩き出した。青木も慌てて後を追う。
「ちょっと待って、それってどういう意味——」
「早く行け、終電逃すぞ」
「いや六時半だからまだ終電じゃないから!」
「うるさい」
 でも井田の耳が、また赤かった。
 青木は傘の下でそれを見ながら、心の中で何かがじんわりと温かくなるのを感じた。
第七章 告白というより、確認
 七月。夏の手前。
 その日は珍しく、打ち合わせが早く終わった。午後二時過ぎにビルを出ると、空は青く、風が気持ちよかった。
 カフェに向かおうとしたら、入口で井田と鉢合わせた。向こうも早く終わったらしい。
「……カフェか?」
「うん、暇だから。そっちも?」
「……まあ」
 二人でカフェに入ってコーヒーを頼んで、窓の外の青空を眺めていた。
 ふと、青木は言った。
「なあ。俺、来月から担当先が変わるかもしれない」
 沈黙。
「……そうか」
「うん。上司から打診があって。新しい案件が入って、そっちに移ってほしいって」
「……断れないのか」
「まあ、断る理由もないし」
 そう言ってから、青木は少し笑った。
「でも、このビルに来なくなるのは、ちょっとな」
「……何で」
「何でって……そりゃ、お前に会えなくなるから」
 直球で言ったら、井田が固まった。
「……は」
「別に深い意味はないよ。また連絡取るの、億劫になるじゃん。それが嫌だなって」
「……連絡先、知ってるだろ」
「高校のときの番号、まだ使ってる?」
「……使ってる」
「じゃあ後で送る」
「……」
「なんで黙ってるの」
「……うるさい」
 また耳が赤くなっていた。
「……ていうか」と、今度は井田が口を開いた。いつもより少し、声が低い。
「お前さ」
「うん」
「……お前のこと、嫌いじゃない」
 青木はまばたきした。
「……知ってるよ」
「知ってるのか」
「なんとなく。ていうか、知ってなかったらこんなに会いに来ないじゃん」
「会いに来てない」
「スケジュール把握してたくせに?」
 沈黙。
「……うるさい」
「あはは」
 青木は笑いながら、コーヒーカップを両手で包んだ。
「俺も、嫌いじゃないよ。井田のこと」
「……それだけか」
「え? それだけって?」
「嫌いじゃない、だけか」
「……」
 青木は少し考えた。
「……好き、だよ」
 言ってしまった。
 カフェの音楽が流れている。隣のテーブルの誰かが笑っている。外を人が歩いていく。
「……そうか」
 井田の声は低くて、静かで、でも確かに何か滲んでいた。
「……俺も」
 それだけ言って、井田は窓の外に視線を向けた。
 耳は真っ赤だった。
 青木は笑いをこらえながら、コーヒーをすすった。これ以上何も言わない方がいい気がした。このくらいでちょうどいい。このくらいが、二人らしい気がした。
エピローグ ── また来週
 翌週の水曜日。
 担当先変更の話は、結局まだ確定していないらしい。上司からは「もう少し待って」と言われた。
 青木はいつものようにビルに向かった。いつものようにエレベーターに乗った。
 六階でドアが開いて、井田が乗ってきた。
「……また来たのか」
「また来た」
「担当変わったんじゃないのか」
「まだ変わってない」
「……そうか」
 エレベーターが七階に着いた。
「打ち合わせ終わったら下に来い」
「分かった」
 ドアが閉まる直前に、井田が言った。
「……ランチ、付き合え」
「喜んで」
 ドアが閉まった。
 青木は一人でエレベーターの中で少しだけ笑った。それから深呼吸して、打ち合わせの顔に切り替えた。
 春が夏になって、また秋になって。そのうち、このビルに来なくなる日も来るかもしれない。でもそれはそれで、また別の方法で会えばいいだけの話だ。
 消しゴム一個から始まった話が、こんなところに辿り着くとは、高校生の自分には想像もできなかっただろう。
 でも人生というのは、案外そういうものかもしれない。
 消えた初恋は消えていなかった。
 ただ、少し時間をかけて、ちゃんとした形になっただけだ。
(了)
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